樋泉克夫教授コラム

  【知道中国 723回】             一ニ・三・初八

    ――毛沢東の得意技は空手チョップ・・・?

    『中国近代簡史』(復旦大学歴史系中国近代史教研組編著 上海人民出版社 1975年)


 「知識青年は農村に行き、貧農・下層中農から再教育を受けることは絶対に必要である」と毛沢東の檄を受けて都市から農村に向かった知識青年、つまり都市の大学生や高校生が農村で「マルクス・レーニン主義、毛沢東思想の指導のもとに哲学、社会科学、文学、自然科学に関する基本知識と実用的な農業技術知識など」を学習するために編まれた「青年自学叢書」の1冊。文革を引き起こした張本人である毛沢東の死、文革によって権力を掌握するという“余得”をえた四人組が逮捕される1年前の出版である。

 この本出版前後を振り返って見ると、確かに文革も66年の開始から数えれば9年目になり、大多数の人々が倦んでいただろう。だが、死の1年前とはいえ毛沢東の威信は全中国に横溢し揺らいではいなかったはずだから、「偉大なる領袖」に盾突くわけにはいかない。そのうえに文革原理主義集団であった四人組の活動は、毛沢東の権威を背景に専横を極めていた。加えるに、この本の書き手は四人組の牙城であった上海の復旦大学である。

 簡史とはいうが400頁近い厚さの本だけに、内容は豊富。1840年のアヘン戦争から1910年代末の清朝復辟運動までの歩みをマルクスやレーニン、毛沢東の著作からの引用を織り交ぜながら委曲を尽くして綴り、近代史における理非曲直、いいかえるなら彼らなりの歴史認識を明らかにしようと努める。その主張の大筋を見ておくと、

 たとえばアヘン戦争では、「犯罪であるアヘン貿易」を進める「凶悪なる外国侵略者を前にして戦いか、しからずんば降伏か。中国人民は戦争が始まるや直ちに清朝とは相反する道を進んだ。偉大なる領袖の毛主席は『我らが中華民族は自らの敵に対し断固として血戦を貫徹する気概を持つ』と指し示す」。かくして「帝国主義とその走狗に甘んじて屈することのない頑強なる反抗精神を発揮し、人民は戦いに勝利し、戦いは人民を教え育てた。『官兵、恃むに足らず』『鬼子(がいこくやろう)、怕るに足らず』。敢然と戦いさえすれば、必ずや外国の侵略者を打ち破れる」。だが、「人民の戦いは売国的な清朝官吏と動揺をきたした地主によって打ちのめされてしまった」ということになる。

 また日清戦争では、「清朝政府がフランスとの戦争において戦わずして敗れたことが、資本主義列強の中国分割の野心を助長した」。そこで「1894年(旧暦甲午年)、日本は中国と朝鮮を侵略する甲午中日戦争を発動した」が、この戦争は「日本軍国主義者が拡張政策を推進し、中国侵略の野望を逞しくする過程において必然的に行き着いたものだ」。「1869年、日本の明治天皇は『御親筆』なるものを明らかにし、『万里波濤を拓き、国威を四方に宣布せよ』と叫んだが」、その第一目標が「海を隔てた近隣の中国と朝鮮の侵略だった」。朝鮮における戦争はともかく、日清戦争の章の最後は台湾領有に言及されているが、「台湾人民が日本統治に反抗して半世紀、この威武にも屈しない頑強なる精神こそ、『我らが中華民族は自らの敵に対し断固として血戦を貫徹する気概を持つ』ことを表している」となる。

 どうやら強くて悪い外国侵略者に勇敢なる人民が戦いを挑むが、肝心なところで侵略者の走狗となった封建地主や軍閥が現れて人民は敗北を余儀なくされる――というのが、この本による近代史の図式のようだ。これを創成期のプロレスに喩えるなら、侵略者がシャープ兄弟で人民が通称「ア痛タの遠藤」こと遠藤幸吉、封建地主や軍閥がレフリーの沖識名。となると、やはり最後の最後は阿修羅の空手チョップの力道山の登場しかないだろう。

 かくて人民の死闘は力道山、いや毛沢東の登場によって・・・大勝利。よかったナア。《QED》