樋泉克夫教授コラム

  【知道中国 731回】             一ニ・三・念七

      ――悲惨、無惨、鬼気、幽鬼・・・怨霊たちよ、語れ

      『大飢荒口述実録』(牛犇 天地図書 2011年)


 著者は、安徽省の極くありふれた農村だった阜陽県牛塞大隊の村人たち(男女合わせて40人ほど。1960年当時の年齢は、下は8歳から上は44歳)にインタビューし、毛沢東が提唱した大躍進政策が引き起こした飢餓地獄をどのように潜り抜けてきたかを語らせる。

 裏表紙には「飢餓は統計でも歴史資料の収集でもなく、肉体が受ける痛苦であり生命の弱さの真実の現れである。飢餓の極点では、生死の境で蒼天に向かって問いかけるべき言葉もない。生死の境を彷徨い生き抜いた老人たちが語る飢餓の苦境を読むと、それはまさに生きた地獄そのものだ」「飢餓は人々に人倫を忘れさせ、自尊心を失わせ、良知を抹殺させてしまう。いま、彼らが口から搾り出すように語る文字に接すれば、慄然としないわけにはいかない」とあるが、なにはともあれ、農民たちの話に耳を傾けてみよう。

■「8歳当時のことを覚えていますか」との質問に、「なんにも覚えちゃあいねえ。あの当時の8歳はガキだで、今のガキとは大違いだ。なんも判っちゃいねえ」「弟は運が悪く、6歳で餓えたままおッ死んじゃった」「親父のことはいうなといっただろう。あの当時の8歳はなんも判っちゃいなかった。どうしてアイツが死んだ子供の肉を喰ったのか、俺にも判らねえ。俺も喰った。ヤツが煮て、腹空かして死にそうな俺を見て、俺にくれたんだ」「ああ、喰らったさ。腹が減っておっ死ぬかどうかの瀬戸際だ。喰わねえワケがねえだろう。いいかい、ガキのオレは何にも判っちゃいなかったんだ」「オレはお袋の墓参りはするが、オヤジの墓なんか・・・。お袋は死ぬ間際に親父と一緒には埋めないでくれと・・・」(1960年当時8歳。インタビュー時58歳。男性)

■(鳥の糞を拾い未消化の穀類を探して食べたと語った後)「(喰われてしまうから)当時は死人より生きたヒトが怖かったぞ。ある時、あの家の前を通ったら、あそこの男衆が『煮えたぞ、煮えたぞ』って鍋持って騒いでた。怖くなって駆け出したものさ」「(豚や牛の皮でできた)靴だって煮て喰らったさ」(1960年当時10歳。インタビュー時60歳。男性)

■「(ひもじさのあまり自分の指をしゃぶり続け、10本の指の腹を全部喰ってしまった挙句に餓死した生後9ヶ月の娘の遺体を)あの娘の父親と一緒に、真っ暗な晩、村はずれの死体捨て場に行って捨てたのさ」(1960年当時24歳。インタビュー時74歳。女性)

■「今でも1960年当時のことを思い出しますか」の質問に、「思い出さないわけがないだろが。当時、誰だって何だって盗んだ」「盗まないヤツなんていないわけなかった。10人の農民のうち9人は盗人じゃ。盗まなきゃア、餓死さ」「盗んだところで罪になんかなるかい。ただ酷い場合だったら命で償うのさ」「(その一例として、子供の死体を盗んだ農民について)ヤツは子供の死体を盗んだ。背中の籠に入れ。埋めに行くと言ったが、本当は死体捨て場に行って盗んだのさ。誰にも見つからなかったもんで、死体を煮た肉を缶にしまっておいた。そしたら検査係りに見つかってしまって、公社のレンガ工場で働かされ、おッ死んじまったよ」(1960年当時44歳。インタビュー時94歳。女性)

 かくして著者は、「1960年から現在まで50年が経ち、苦難の人生を生き抜いた人々は共に古希を過ぎた。彼らの記憶を借り、あの年が残した歴史を書き留めるのは、大飢饉は天が造りだしたものではなく、明々白々たる人禍であることを、我らの子孫に判らせるためだ」と語る。この「明々白々たる人禍」を、当時、人々は大躍進と呼んだ・・・惨。《QED》