樋泉克夫教授コラム

  【知道中国 736回】              一ニ・四・初六

      ――「団結は力、団結は勝利」だそうです

      『論淝水之戦』(李興斌 上海人民出版社 1975年)


 毛沢東が『中国革命戦争的戦略問題』で弱軍が強軍に勝利した典型として論じている4世紀末に発生した「淝水の戦」とは、「中国北部全域を統一し、黄河流域全域に加え長江、漢水の上流に広がる肥沃で実り豊かで広大な地域を押さえ、法家である王猛による補佐と政治によって社会における生産が一定程度に回復した」前秦王朝と、「長江下流域と五嶺以南の辺縁の地に位置し、北方からの移住者によって黄河流域の先進農業生産技術が導入されたとはいえ、土地は狭く人口は希薄だったことから、物質的には前秦に遥かに及ばない」東晋との間の決戦である。

 動員兵力は東晋8万人対前秦97万で1対12。だが、「東晋は自らの内部の団結と後方の安定をテコにして、脆弱な経済力と微少な兵力という弱点を補った。これに対し前秦は、自らの内部の不統一と不安定が強大な経済力と質量共に圧倒的に優れた兵力を削いでしまった」。かくして弱国の東晋が強大な前秦を破ったわけだが、戦争に臨んでの両国最高指導層の資質の違いに就いて、この本は次のように指摘する。

 「東晋朝廷の文武の高級官僚の間には『将相和』の関係が生まれていたことが、前秦の侵攻を打ち砕くうえで重要な意義があった」。「将相和」、つまり武官と文官の間が協力・信頼の強い絆で結ばれていた。対する前秦には「重大な矛盾が生じていた」。最高指導者である符堅の「誤った指令が矛盾を激化させ、加えて符堅は異なった意見には全く耳を貸さず、常に自らが正しいと思い込んだ軍事作戦を主張し、両軍が直面している情況について実情にそぐわない判断を下していた。彼は自軍の戦力を過大評価し、敵軍を盲目的に軽んじ、結果として誤った軍事作戦を展開した」。そこで、この本が挙げる前秦の敗因を整理すると、

一:戦争最高指導者の符堅は国を挙げて百万の軍隊を動員した結果、後方に戦力の真空地帯が生まれ、結果的に鮮卑など北方の異民族に侵略の機会を与えてしまった。

二:戦線が延びきり、兵力が分散してしまった。最前線の主力と殿の部隊との間は1千里で、東西両戦線を隔てること1万里。かくして「名目上は百万の軍隊だったが、実際に前線の戦闘に投入できたのは一握りほどの僅かな兵力に過ぎなかった」。

三:自己犠牲を厭う忠誠心なき弱将の重用は、「軍事的失敗の重要な原因でもあった」。

四:東晋軍の作戦能力を軽視し、軽率に部隊後退を命令し戦線から離脱させ、作戦の主導権を敵軍に与えてしまい、自らを受身の立場に置いてしまった。

 かくして現代に立ち戻り、「こういった軍事上の誤った措置は(中略)、じつは政治上の誤り――内部の結束の乱れと社会の不安定――と緊密に関連している」と評価した後、「目標が一致してこそ一致した団結が可能となり、一致団結してこそ断固無敵になりうる。プロレタリア階級は人類解放、共産主義実現という至上の大目標をしっかりと持つ。この至上の目標に鼓舞され、『国家の統一、人民の団結、国内各民族の団結』をさらに一歩強加し、社会主義の革命と建設へのより輝ける勝利を保障しよう」と説き、「輝ける勝利」を目指す。 

 この本が出版された75年は66年の文革開始から10年ほど。国民の間に四人組に対する嫌悪感、文革への厭戦気分がさぞや高まり、国内は四分五裂情況にあったはず。であればこそ団結を強調し、党組織の団結と再建を第一に掲げねばならなかったのだろう。それにしても強国前秦の敗北への道は、北京における胡錦濤(団派)対習近平(太子党)、重慶での薄熙来失脚への歩みを髣髴とさせる・・・やはり成功は失敗への第一因子だ。《QED》