樋泉克夫教授コラム

  【知道中国 737回】              一ニ・四・十

     ――鉄は熱いうちに打て、脳筋(のうみそ)は柔らかいうちに鍛えよ

     『淝水大戦』(施進鐘 上海人民出版社 1976年)


 冒頭の「編者的話」で「この本は物語の形式を借りて、この戦争の前後の経緯について少年児童向けに紹介している」と説明しているが、「この戦争」とは、じつは前回(736回)で扱った淝水の戦だ。「少年児童向け」というだけあって、判りやすい文章に加え勇壮なイラストが多く、まさに手に汗握りながら「弱小な東晋軍が敵方の錯覚と油断を利用し、強大な前秦軍を打ち破った」情況、いいえるなら弱軍でも強軍を負かすことができる秘策が、少年児童の柔らかな脳にシッカリと刷り込まれるよう工夫されている。

 「淝水大戦の物語は、いまから1500年以上昔に遡る。西晋滅亡の後、我が国の歴史の上では何回目かの混乱の時に当たる。西北辺境の多くの少数民族は機に乗じて黄河流域に侵入した」と書き出された物語は、歴史上では五胡十六国の時代と総称される100年以上続いた混乱の時代のなかで「黄海の水際から新疆の最果てまで、四川盆地から蒙古の草原まで、広大な北部中国を凡て版図」とした「大秦大王」の符堅を登場させる。

 じつは彼は西北辺境の異民族である氐族の指導者で、前秦を「五胡十六国」のなかで最も広い国土と人口を擁する最高最強の国力を持つ国家」に仕上げた。

 一方、「北方に居住する多くの漢族は、少数民族貴族の残虐な統治に耐えられず、潮のように長江を越えて南方に移住した」。そのうちの司馬一族が現在の南京を都とし東晋を名乗ることになる。

 「南方に移住した北方の漢族は次々に武器を持ち、(東晋の)北伐軍に加わった。北方に残った老百姓(じんみん)も北伐軍と密接に連携して抵抗したが、東晋の統治者が動揺や妥協を繰り返したことで数次にわたる北伐も凡て失敗に終わった。東晋は北方の失地を取り戻せないままに」、とどのつまりは僅かな土地に逼塞せざるをえなかった。

 ここで一気に決着をつけるべく符堅は大軍を動かそうとするが、皇太子の符宏が「陛下、なぜ、いま彼らを撃つのでございますか。もし破れでもしたら、人民を煩わせ痛め、そのうえ陛下の威信に傷がつきます。攻撃しないのが得策ではござりませぬか・・・」と諫めるが、「天下の大事、お前ら如き青二才に何が判る」ととりあわない。

 かくて堂々の大軍が東晋撃破に進発するが、「時は盛夏。八月の太陽はジリジリと人馬を焦がす。天空には一変の雲もなく、地上には風も吹かない。まるで灼熱地獄のようで、兵士の喉の渇き、空腹に襲われ疲れきっている」。だが、指揮官は馬を駆って隊列を前後に行き交い「絶え間なく鞭を振るい、兵士に急速前進を強要する。兵士たちは遠い故郷を思い描き、心は悲憤に溢れ、さらに歩みは重くなる」。意気消沈で戦意喪失というわけだ。

 前秦軍は長距離の行軍で人馬は共に疲労困憊のうえに、兵站線が延びきってしまい兵力集中は不可能。東晋軍は「有利なこの機に乗じて敵の先鋒を急襲し、彼らの戦意を殺いでしまえば、我が方が一気に主導権を握ることが出来る」と作戦決行だ。「老百姓は感激の涙と共に家畜や食糧を差し出し、前進する東晋軍を激励した」。勇気百倍で戦意旺盛。

 かくして「多くの内部矛盾を抱え、社会に厭戦気分が満ち、表面的には強大だが実は脆弱」な前秦百万の軍勢に、「将卒凡ての心が一つになり、人民から熱烈な支持を受け」た東晋軍の八万は果敢に戦いを挑む。淝水大戦の結末は、自ずから明らかだろう。

 油断と驕慢は大国の病理であり最大の敗因。やはり成功は失敗の父だった。《QED》