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樋泉克夫教授コラム
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【知道中国 739回】 一ニ・四・仲四
――勇壮極みない“激語”の連続にホトホト呆れ返ります
『太平軍在河南』(王天奨 河南人民出版社 1974年)
「清朝地主階級政権の暗黒統治の下で、圧迫・搾取されるという痛苦極まりない生活を強いられていた」河南人民の前に颯爽と現れたのが、19世紀半ば、『論語』と『聖書』を混ぜこぜにしたような教義を引っ提げて広東省の西隣に位置する広西・金田で洪秀全が旗揚げした太平天国の軍隊だった。
学校で「太平天国の乱」と学んだと思うが、それは清朝=秩序=正義の立場からの寝惚けた歴史観のなせる間違った考えだ。太平天国は農民による起義であり、悪である清朝に立ち向かう英雄的行為を「乱」などというべきではない。革命と高く評価すべきだ。かくして「太平天国革命」となる。これが共産党史観というものの“真骨頂”なのだ。
「中国歴史故事」と銘打たれたこの本では、先ず当時の河南の情況を、「地主、高利貸しと商人が手を結び、人民の生活困窮を尻目にアコギな振舞いを続けた。1千貸したとして、実際は8百しか与えない。利息が利息を生んで、1年後には利息だけで元金を上回る。期限がきたら、地主が飼っている狗腿(ゴロツキ)が催促にやってくる。同情は一切なし。農家の豚、鶏、布から食糧、農具にいたるまで、借金のカタに一切合財を持ち去り、大多数の農民は止むにやまれず娘を売り、田地田畑を売り飛ばし、返済に当てる始末だ」。かくして農民は貧しく悲惨な生活を強いられ、暗黒の日々に塗炭の苦しみを味わうこととなる。
そこに太平天国軍が「天朝田畝制」を掲げて登場する。地主をぶっ殺し土地を取り上げ農民に平等に分け与えようというのだから、まさに毛沢東が進めた「土地改革」の原型なのだ。地主に対する恨みを晴らせる上に土地がもらえるわけだから、農民は歓喜して太平天国軍に加わった。かくて太平天国軍は瞬く間に長江の南――ということは中国の南半分を押さえ南京を都に定め、北京に在る異民族=満州族の清朝廷室に対峙する。
「太平天国軍の北方の敵を撃ち西方に進発する輝かしい勝利は、全国各民族人民を最高度に鼓舞し、南北各地の人民は奮起して清朝による反動統治に造反し、数多くの新たなる武装起義を巻き起こした」わけだが、「反動統治階級」がそう簡単に引き下がるわけがない。
河南では、①地主と「反動的官衙」がゴロツキを集めて武装勢力を組織し、②武装勢力を使って「恐怖の白色テロ」を敢行し(たとえば言葉使いが河南人に思えなかったら、地主の武装勢力は法的手続き抜きで捕縛・死刑が可能)、③黄河の防備を固め太平軍による南方からの河南省への進路を阻み、④山東、河北、山西、陝西など周辺緒省から「反動軍隊」の増派を求め防備を固めた。
かくて「偉大なる太平天国革命運動が過ぎ去り、すでに百年以上。この百余年来、我が国人民の帝国主義と国内反動派に反対する闘争は止むことはなく、遂に偉大なる領袖である毛主席、偉大で正確で光栄ある中国共産党の領導の下、人民民主革命の偉大な勝利と社会主義の豊かで圧倒的な大道を胸を張って前進するに到った。今日、国内外のこのうえなく素晴らしい情況と社会主義革命の深化する日々、雄々しく前進する社会主義建設の凱歌のなかで、百数十年前の太平天国における英雄的闘争の歴史を再び学び、河南人民の革命伝統を受け継ぎ発揚し、精神を煥発させ、政治工作に努め、偉大なる社会主義事業、世界革命のために更に大きな貢献をなそう」と、太平天国軍の歴史も総括されることになる。
そこで彼らは中国には「偉大なる領袖である毛主席」と「偉大で正確で光栄ある中国共産党」が断固として必要と主張する。だが身勝手千万な屁理屈は、傍迷惑でしかない。《QED》
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