樋泉克夫教授コラム

  【知道中国 745回】               一ニ・四・念九

    ――かつて昆明は親日都市だった

 雲南省の省都・昆明は2回目。前回はバンコクから1時間ほどだったが、今回は上海で乗り継いだ国内線ですら3時半ほど。大陸の広さだけでなく、この街の東南アジアとの距離の近さを改めて実感すると共に、日本からの遠さを知った。やはり昆明は日本からは遥かに遠い中国西南の辺境の街で、僅かに日本のマラソン選手の高地トレーニングの適地として知られている程度であり、過去にも日本とは馴染みの薄い街だったと思っていた。だが恥ずかしながら、それは大いなる誤解、いや無知だったようだ。

 旧市街に残された20世紀初頭に創設された雲南陸軍講武学堂を見学した。この学校は清朝打倒の革命から共産党政権成立までの半世紀余の間に多くの功労者を輩出し、共産党政権成立の元勲たる朱徳や葉剣英も学ぶなど、20世紀前半の中国に大きな足跡を残しているとの説明だったが、見学者のために配置されている当時の教室や付属病院の佇まい、さらに銃剣術の訓練風景の写真からは中国風は感じられず、どこかに日本風が漂っていた。それもそのはず。この学校は日本人を抜きにしては語れないようだ。

 清末における清朝打倒革命の中心の一つが雲南だったが、その原動力は日本の士官学校に学んだ若き将校たち。彼らが母校である日本の士官学校に倣って創設したこの学堂に馳せ参じたのが、東京で革命を画策していた孫文などに共感したことから陸大を退学させられたうえに剥官処分を受けた加藤信夫である。彼は体育学校を創設し主任として講武学校の予備教育に尽力している。一書に曰く、「雲南における(清朝打倒)革命の成功は、氏の功績に負ふところ少くなかった」と。

 辛亥革命を機に誕生した中華民国時代、雲南を基盤に中国政治に影響力を発揮した人物に唐継尭がいるが、彼もまた日本の士官学校に学んだ親日家であり、山縣初男以下数人の日本人を顧問として招請し、省の財政・軍事などを委ねた。大正5年から末期までのことだが、昆明滞在の日本人は100人を超え、日本から大工や左官を呼び日本流の座敷を作り、省政府高官の邸内には桜が植えられていたそうだ。陸相を経験した板垣も大尉時代には駐在武官として滞在している。一書にいわく、「昆明湖には日本からモーター・ボートをとりよせ浮かべたりし日本人の黄金時代を現出したものである」と。

 「かつての親日都市昆明」も、日中戦争勃発を機に「抗日拠点」へと性格と役割とを変える。連合軍による援蒋ルートの拠点となり、毛沢東が1949年の共産党政権成立を機に鎖国政策に踏み切ったことから、昆明は中国西南辺境の山中に隠されてしまい、加藤も山縣も忘れられ、日本の関心も昆明からは遠のくこととなる。

 だが、1970年代末に鄧小平が改革・開放の大号令を発し、90年代初頭に李鵬首相(当時)が「西南各省は南に連なる東南アジアに向かって大胆に進め。自らの智慧と力で貧困を打ち破るべし」と命ずるや、四川、貴州、広西などの西南各省は雲南省を軸にして東南アジアとの接点を求め動き出した。じつは華僑にみられるように、漢族は“熱帯への進軍”とも呼ぶべきほどに大量の南下を歴史的に繰り返してきた。つまり進軍は再開されたのだ。

 かくしていまや昆明は歴史的に担ってきた東南アジア、インド、さらに西のイスラム世界と交渉の接点としての役割を見事に復活させた。そのうえ最近では古都で知られる西安の西に位置する宝鶏とを結んで、その先の中央アジア、さらにはヨーロッパとの間の新物流ルートである「欧亜大陸橋」のハブとしての役割をはすべく動き始めた。

 改めて雲南を真ん中に地図を眺めれば、中国大陸、東南アジア、インド亜大陸の中心に昆明が位置していることが判るはず。その戦略的位置を考えれば、明治・大正の先人が持った戦略志向を改めて学ぶべし。高地・昆明の夜の涼気が教えてくれるようだった。《QED》