樋泉克夫教授コラム


  【知道中国 750回】              一ニ・五・仲二

    ――「中国でインド洋にいちばん近い都市」へ、ようこそ・・・


 フライング・タイガー司令部跡は「飛虎楼 主題餐庁 FLYNG TIGERS RESTAURANT」と名前を変え、洒落た中華レストランに大変身し、内部にはフライング・タイガー縁の品々や生みの親でもあるクレア・L・シェンノートの写真などが飾られていた。数年前、湖南省西端の芷江に残るフライング・タイガー基地跡を尋ねた際にも感じたことだが、日中戦争とはいうものの実態は日米戦争であり、であればこそ日本は一時期、太平洋と中国大陸の二正面で米軍と戦っていたことになる。日米戦争は太平洋だけで戦われたわけではないことを、殊に中国の内陸部から西南地方にかけて点在する戦跡を歩くと痛感する。

 同時に、こういった戦跡を北京政府が愛国教育基地と定め、愛国教育に励めば励むほど、共産党の日頃の自画自賛とは裏腹に、日本と戦ったのは米軍の全面支援を受けた国民党軍だということが明らかになってしまう。少なくとも中国の西南戦線ではそうだ。そこで共産党は中華民族主義という“印籠”を持ちだし、これを振りかざすことで、国民党の貢献を限りなく薄め、相対的に抗日戦争における共産党色を強めようという躍起になっている。

 さらにいうなら日本との戦いにおける米軍の貢献をさりげなく押し出すことで、巧まずに中米友好を打ち出そうという魂胆が見え隠れする。芷江でもそうだったが、西南中国の各地に点在する日中戦争の戦跡が中米友好のシンボルとなっていることの底意は、現在の日・米・中関係を考える時、決して小さくはないことを日本人は知っておくべきだろう。

 それにしても「飛虎楼 主題餐庁」の味はサラッとしていて、そのうえ洒落た盛り付け。これまで食べたどの雲南料理より旨かった。やはり経済統計など不要。手元不如意なら、誰も贅沢はしない。店内の盛り上がりは、一般市民の潤う懐具合を如実に物語っていた。

 思い起こせばバンコクに住んでいた頃、時折、タイ雲南会館の楊主席の豪邸に遊びいって京劇談義に花を咲かせ、夫人手作りの雲南料理を数多くご馳走になった。楊さんは「ヤツの雲南料理の腕は超一流で味は絶品」と豪語していたが、あれは油濃く、醤油の味が強く、強い酒で流し込みでもしない限り、食えたものではなかった。ついでにいうなら、それは今から20年ほど前の90年前後の数年間のことだったが、彼はバンコク、昆明、香港、台北の4ヶ所に家庭を構えていた。つまり夫人が4人で子女は多数。共産党とも国民党とも、ましてやタイの政財界要路や国軍首脳とも太いパイプを持ち、バンコク、昆明、香港、台北を舞台に宝石ビジネスを手広く展開していた。もちろん彼が表舞台に立つことはない。「これが外に飛び出した雲南人たるオレの行き方だ」との楊さんの呟きを、時に思い出す。

 昆明の街を歩いていると、到る所で地下鉄工事現場にぶつかる。このだだっ広い街で地下鉄など必要なかろうと思うが、おそらく現在の中国では地下鉄の有無が一流都市の資格ということではないか。であればこそ地方都市の多くが、なにかに突き動かされるかのように闇雲に地下鉄建設に邁進しているのだろう。地方都市にみられる猛烈な上昇志向といってしまえばそれまでだろう。だが今だからこそ、一歩立ち止まって考えてみる必要がありそうだが、なにせ挙国一致して経済建設と都市再開発に「発瘋」している情況である。一歩立ち止まって頭を冷やせなどという傍からの“助言”などに耳など貸すわけがない。

 昆明を発って西南に1時間ほど。次の目的地である芒市に到着する。

空港を出て最初に目に付いた看板には「中国でインド洋にいちばん近い都市・芒市」と。このキャッチ・コピーに、この街のすべてがこめられているように思えた。《QED》