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樋泉克夫教授コラム
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【知道中国 755回】 一ニ・五・念七
――戦闘遺址碑文が語る「不都合な真実」
車窓から眼を遣ると輸送管の列が右に左に続き、かつての滇緬公路を近くに遠くに眺めながら進むと、畹町への街道沿いに「滇西抗日戦争 黒山門戦闘遺址」が建っている。裏に廻ると碑文には、「1944年末、芒市失陥の後、残敵2000人余を黒山門に集め、回龍山一帯で陣地を構築し頑強な抵抗を試みた。中国遠征軍は兵をと方面に分散して敵に接近し、1945年1月1日から18日の間、外囲の残敵を掃蕩し、19日21時に黒山門守備兵に総攻撃を仕掛ける。凡ての砲は一斉に火を吹き、黒山門は忽ちにして火の海と化した。砲火が止んだ後、我が軍兵士は敵陣に突入し日本軍と白兵戦を戦い、殺し尽くした。翌日午前10時、敵は戦線を支えられず、畹町に向け壊走した。我が軍は勝利に乗じて追撃し、国門の畹町を奪還した」と記されていた。
いまここで滇西、つまり雲南省西部における日中両軍の戦闘の詳細を論ずることは控えるが、この地域における日本軍の情況を時間の経過を追って確認しておく必要はありそうだ。たとえばビルマから滇緬公路を北上した日本軍の龍兵団が国境の畹町から雲南省に入ったのが昭和17(1942)年5月3日。以後、龍陵(5月5日)、拉孟(5月6日)、騰越(5月30日)と快進撃を続け、かくて雲南省西部を流れる怒江(ビルマ領に入りサルウィン河となる)の西岸一帯、つまり滇西を制し、重慶の蒋介石政権に圧力を掛けていった。
ところが昭和19(1944)年夏前後から蒋介石の信頼する衛立煜将軍率いる中華民国側の雲南遠征軍が怒江を渡河し日本軍に襲いかかる。「師団司令部管理部衛兵隊」の「重機分隊のビリッケツの弾薬手」として戦線に赴いた古山高麗雄は『龍陵会戦』(文春文庫 2005年)で、日本軍に較べ「兵員は十五倍以上、火力は何十倍」の「雲南遠征軍は、蒋介石軍で、あのころ私たちは、米式重慶軍と言っていた」と綴っている。ここでいう「十五倍以上」の兵員は中国兵で「何十倍」の火力は米軍の供与だ。前線であれ後方であれ、作戦全般は米軍主導の下で行われ、「米式重慶軍」とは米軍にとっての捨石でしかなかったのだ。
かくして日本軍は「兵員は十五倍以上、火力は何十倍」の「米式重慶軍」に立ち向かい、「陸の硫黄島」とまで形容されるほどに悲壮な死闘を余儀なくされる。龍兵団は拉孟(昭和19年9月7日)、騰越(9月14日)と玉砕を重ね、9月23日には拉孟南方の平戞を失い、11月5日に龍陵を、年が明けた昭和20(1945)年1月15日に国境の畹町から撤退し、かくて2年9ヶ月に及ぶ滇西駐留は終焉し、北ビルマへと潰走を重ねることになる。同地に非命に斃れた兵士は数知れず、いまだに収集されることもなく残留する遺骨の数は8000余体とも。無数の兵士の魂は滇西各地を彷徨う。共産党政権は遺骨収集を許さない。
ここで碑文に戻る。「中国遠征軍」とは当時の日本軍が「米式重慶軍」と呼んでいた「雲南遠征軍」で「蒋介石軍」のこと。「我が軍兵士」とは「米式重慶軍」の兵士であり、有態に言うなら、米軍の手足となって日本軍に攻撃を仕掛けてきた中国人兵士である。だが、黒山門戦闘遺址は地元の共産党委員会と地方政府が建立している。そこで予備知識のないままに碑文を読めば、共産党が派遣した「中国遠征軍」が日本側の「黒山門守備兵に総攻撃を仕掛け」、「敵陣に突入し日本軍と白兵戦を戦」った「我が軍兵士」は共産党軍兵士と誤解することになるはずだ。これぞ誤解を計算したうえでの政治宣伝である。この種の政治宣伝に、旅先で次から次へと出くわすことになるが、最終目的地である騰越(=騰冲)では壮大な仕掛けの反日政治宣伝を目にすることになるが、それはまだ先の話だ。
車は日本軍の苦難の撤退の道を辿り、遮放を経て、やがて国境関門の畹町へ。《QED》
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