樋泉克夫教授コラム

  【知道中国 756回】             一ニ・五・三〇

      ――小さな橋が担う“大きな働き”とは


 やがて車は、現地タイ族のことばで「太陽が最も高い所」を意味する畹町に入る。しばらくして左折すると、正面に橋が2本。左がコンクリート製の畹町九谷橋で、右が鉄骨に板を敷いただけの畹町橋。共に長さは20m強で、巾は中央分離帯のある畹町九谷橋が15mほどで畹町橋は5m前後。10mほど下を流れる畹町河がタイとミャンマーを限る国境となる。現在は使われていない方の畹町橋の真ん中に「中緬国界請勿跨越(両国国境、越えるな)」と書かれた標識があり、その下にチェーンが張られている。

 橋の向こうのミャンマー側に眼を遣ると、橋の袂には軽トラックとバイクが数台並び、目立つ場所にある建物の大きな壁に「カネ儲け店舗物件販売開始」という意味の不動産広告が見える。不動産開発ブームは、ここまで押し寄せているのだ。

 この橋を越えて南下すればミャンマー東北の要衝であるラシオ(漢字で臘戌と表記)を経て、英国植民地時代の避暑地であり、日本軍司令部のあったメーミョーを過ぎ、ミャンマー中部に位置する100万都市で、近年は中国人の街と化しつつあるマンダレーへと続く。

 数年前、マンダレーから未舗装道路をラシオに向かったことがある。直線で300キロ余り。所要時間は12時間ほど。土埃の舞う道路をひっきりなしに行き交うのは10~15トンほどのトレーラー。中国行きの荷台に満載されていたのは、スイカ、野菜、それに仏像など。沿道の屋台、ガソリンスタンド、レストランなど、どこでも中国語が通じたのには吃驚したが、歴史を振り返れば明代末期の頃から漢族はこの道を通って南下を繰り返していたわけだから、そう驚くこともないだろう。「インド洋にいちばん近い都市」という芒市のキャッチコピーに倣うなら、ここは「東南アジアにいちばん近い国境関門」でもあるわけだ。そこで街のカンバンを見ると、タイで使われているタイ語表記が目立つ。

 橋の袂の左側には出入国を管理する入境辺防検査処があり、右側には宝石の土産物屋が軒を連ねる。2つの橋の中国側の袂に横7,8mで縦が3mほどの大きな看板が立つ。中国側には胡錦濤を中心に地方政府幹部らしい人々が写っている。この地域を視察する胡に向かって地方幹部が“ご進講”した際の写真だろう。「この地域を中央政府は重視しているぞよ」ということを伝えようというのか。裏側、つまりミャンマー側は訪中したミャンマーのテイン・セイン大統領と胡が握手している写真だ。照明装置が付いているところをみると、夜間はミャンマー側からは握手する両国首脳のライト・アップされた姿がみえることになる。両国友好を盛り上げようというのだろうが、ミャンマー側に人家らしきは僅かしかみえない。ならばライト・アップされても、効果は期待できないだろうに。

 畹町橋の袂に置かれた「畹町橋簡介」では、この橋を「抗戦名橋」「友誼名橋」「商貿名橋」とし、①日中戦争時にはこの橋を通って大量の物資が「我が国抗日の前線に運ばれ」「中国抗戦にとっての唯一の『輸送管』となり」、「『3ヶ月で中国を滅亡させる』といった日本軍の夢想を打ち砕き」、「1945年1月20日、中国軍は日本軍を国門の畹町から追い出した」。②「1950年4月29日、中国人民解放軍は五星紅旗を畹町に掲げ雲南全域の解放を宣言し」、「56年12月15日、敬愛する周恩来首相とバー・スエ首相が手を携え橋を渡り、芒市で開催された中緬辺民聯歓(中国ビルマ辺境住民友好)大会に参加し、両国友好の新しい時代を切り開く」。③改革開放初期において「畹町は辺境貿易の魁となり、両国辺境の開発を促進した。胡耀邦、万里、喬石、胡錦濤、李瑞環、李鵬、朱鎔基、呉邦国ら40数名の党と国家の指導者が視察したこの橋は、過去と未来を結び海内を繋ぐ」と紹介している。《QED》