樋泉克夫教授コラム

  【知道中国 757回】                一ニ・六・初一

    ――「畹町橋簡介」が語りかける中国の歴史と政治

 ここで旅を急ぐ前に「畹町橋簡介」について、気づいた2,3のことを記しておきたい。

 第1が、「1945年1月20日、中国軍は日本軍を国門の畹町から追い出した」と「1950年4月29日、中国人民解放軍は五星紅旗を畹町に掲げ雲南全域の解放を宣言した」という2ヶ所だ。ここでも、このまま予備知識抜きで素直に読んでしまえば、抗日戦争に勝利した中国軍は中国人民解放軍ということになりかねない。改めて「日本軍を国門の畹町から追い出した」「中国軍」は米式重慶軍であり、断じて人民解放軍ではないということを確認しておくべきだろう。見事に仕組まれた政治宣伝。敢えて誤解を誘う巧妙な表現である。

 また「雲南全域の解放」だが、これは国共内戦に敗れた国民党の雲南軍が国境の南に敗走したことを指す。やがて彼らはタイ・ラオス・ミャンマーの国境が重なる黄金三角(ゴールデン・トライアングル)に落ち延び、台湾に逃れた国民党政権と連絡を取りつつ、タイにおける合法的居住権と引き換えに70年代後半に東北タイで過激なゲリラ活動を展開した北京系タイ共産党ゲリラとの戦いに参戦することになる。「彼らはタイの特殊部隊などとは較べものにならないほどに勇敢で強く、まるで猛禽のように共産党ゲリラに挑んでいった。さほどまでに合法的居住権が欲しかったのだろう。故郷を追われた兵士たちの悲しい物語・・・だが、俺の狙いはドンピシャだった」とは、この作戦をタイ国軍最高司令官として指揮し後に首相になったクリアンサク大将から、バーンケンの私邸で手料理をご馳走になりながら聞いた国共内戦の後日談である。

 その後、台湾からの支援は民進党政権が誕生することで先細り、国民党の政権奪還に伴い復活するなど、“中華民国の政治”に翻弄されるばかりだ。いま彼らの子孫は北タイの山中に“もう一つの中国”を営む。心ならずも異土で人生を終えた彼らは遠い故郷の雲南の山々が望めそうな場所に葬られ、いずれ「入土為安(故郷の土に返る日)」を待っている。

 第2は「胡耀邦、万里、喬石、胡錦濤、李瑞環、李鵬、朱鎔基、呉邦国ら40数名の党と国家の指導者」である。なぜ趙紫陽と江沢民の名が記されていないのか。趙は天安門事件を機に失脚したからと思えば納得できそうだが、では江はなぜ?

 じつはここに記された「40数名の党と国家の指導者」と趙、江では開発戦略に違いがあった。80年代半ば以降、雲南を中心とする極貧の西南地方の経済社会開発を巡って「党と国家の指導者」の間に、「上海を中心とする長江下流域と結べ。西南地域を源流とする長江を物流幹線として、豊富な天然資源を先進工業地帯に流せ」と「国境を東南アジアに向かって開放し、インド東部からヴェトナムまでの広大な市場に結びつけよ」という異なる2つの考えが生まれた。趙は前者に、李鵬は後者に繋がる。天安門事件による趙の失脚によって、李の考えが大勢を占めることとなり、90年代に入るや李が「西南各省走向東南亜(西南各省は東南アジアに向かって歩みだせ)」と大号令を掛けたわけだ。

 かくして国境を越えた西南開発の方向が打ち出されるのだが、江沢民政権時代になると減速してしまう。ところが胡錦濤が政権の独自色をみせるようになった2005年前後から、高速道路や空港といったインフラ建設、大型不動産開発、遺跡の整備などの多くが本格化する。つまり「40数名の党と国家の指導者」は西南開発の恩人ということになる。

 第3は「畹町橋は炎黄子孫を救おうという歴史的重責を担った。3200人の南僑機工が、帰国し参戦した」という記述である。1939年、彼らのいう抗日戦争の戦場に赴くべく北上した「南僑機工」の目の前に畹町橋があった。そして彼らは、その橋を渡っていった。《QED》