樋泉克夫教授コラム

  【知道中国 758回】               一ニ・六・初三

    ――「重走南僑機工抗日滇緬路」という新たな統一戦線活動

 南僑機工とは自動車の運転や修理技術を持った東南アジア各地の華僑青年である。彼らは1939年夏、歓呼の声に送られシンガポールの怡和軒倶楽部を出発し、南ヴェトナムのサイゴン(現ホーチミン)を経て汽車と徒歩で国境にたどり着き、畹町橋を渡る。

 当時の日本側の動きを追っておくと、昭和13(1938)年1月10日に御前会議で「支那事変処理根本方針」が決定され、16日には近衛首相が「国民政府相手にせず」と声明。国家総動員法公布1週間後の4月7日、大本営が徐州攻略作戦を許可。以後、厦門(5月10日)、徐州(5月19日)、広州(10月21日)、武漢三鎮(10月27日)と日本軍は中国南部の要衝を次々に攻め落とす。蒋介石が逃げ込んだ重慶への空からの猛爆は12月からはじまるが、その直前に援蒋ルートが完成している。

 昭和14(1939)年には5月に勃発したノモンハン事件でソ連軍と戦いながらも、日本軍の中国南方戦線での進撃は続いた。援蒋ルートに関連した動きをみると、11月にフランスに、昭和15(1940)年6月にイギリスに、日本政府は援蒋行為の中止を要求している。7月にはイギリスは日本の要求に応じ、援蒋ルート閉鎖の方針を打ち出した。ところがアメリカが対日攻勢に転ずるや、それまでの融和策を捨て、イギリスは援蒋ルートの再開を宣言する。さらに1年が過ぎた昭和16(1941)年になるとアメリカの対中援助は急拡大し、満州事変以来の日中戦争は、中国西南を戦場とする日米戦争へと様相を一変させ、ついに12月8日の真珠湾攻撃へと突き進んでいった。

 1939年9月から日本軍がビルマ全域の占領を果たした1942(昭和17)年5月までの間に、南僑機工が滇緬公路を使って運んだ物資は45万トンを超えたともいわれている。3200人のうち3分の1強が滇緬公路に斃れ、1000人ほどが東南アジアに戻り、残りの1000人ほどが国共内戦の時代を越えて、雲南、四川、海南島で共産党政権下に生きたという。

 それから40年ほどが過ぎた1980年代になり、その活動を検証し歴史に留めようとする元南僑機工やその子や孫によって、「南僑抗日機工雲南聯誼会」(現在は「雲南南僑曁眷属聯誼会」)が雲南で組織された。

 さらに四半世紀ほどが過ぎた2005年12月11日、畹町橋を見下ろし、遥かミャンマーを望める畹町北方の小高い山の上に「南洋華僑機工回国抗日記念碑」が建立された。横幅6mで高さが16m。記念碑の前にはシンガポールを拠点に華僑抗日運動を指導し、南僑機工募集の先頭に立った陳嘉庚(1874年~1961年)の白玉像が立っている。

 国共内戦では毛沢東率いる共産党を支持したことから彼は「愛国華僑」の代表として49年の建国を迎えている。翌50年にシンガポールに戻ったものの、英国籍を失い国外退去処分を受けた。かくて生まれ故郷に近い福建省の廈門に居を定め、ゴム園や新聞経営で蓄えてあった莫大な財産を投じ、インフラ整備や教育事業を行った。毛沢東が強行し4000万人以上を餓死させたといわれる大躍進運動の渦中で人生を終えている。死に臨んで、彼は孫文に革命資金を提供し、毛沢東を支持した自らの政治的決断の誤りを悔やんだことだろう。もっとも“死に時”だけは間違えなかった。かりに文革の時代を生きていたら、紅衛兵という毛沢東原理主義の若者たちの手で嬲り殺しにされていたはずだ。それというのも彼は、紅衛兵にとっては不倶戴天の怨敵である資本家だったからだ。

 そんな陳が「偉大的愛国者」として息を吹き返し、昨年夏頃、南僑機工の亡霊たちを従えて畹町橋付近を彷徨いはじめたというのだ。愛国主義教育ミステリーである。《QED》