樋泉克夫教授コラム

  【知道中国 759回】                  一ニ・六・初五

      ――南僑機工の“亡霊”たち

 小雨が降り始めた畹町の表通りを小走りで駆け抜け、路地の先に店を構える新華書店の支店に飛び込み10冊ほど本を買う。ちょうど昼時で食事中だったが、珍しいことに店員は食事を中断し、嫌な顔もせずに応対してくれた。

 ふと前方を見ると、店の前に広場があり、正面の壁には4,5m×30mほどの巨大な写真が貼られている。毛沢東を中心に右に朱徳、劉少奇、周恩来、陳雲、陳毅、毛の左には民族衣装を着た独立ビルマ初代指導者のウ・ヌー首相夫妻と思しき人物、その左に同じく民族衣装の3人の男性が立つ。中国側は全員が人民服だ。写真の上には「中緬建交六十周年 充分発揮畹町橋梁紐帯作用(中国・ビルマ国交樹立60周年 両国を結ぶ畹町の橋梁紐帯作用を充分に発揮させよう)」との文字が見える。彼らが49年の建国直後に両国の国交を結んだ功労者ということだろうが、あるいは偽造写真の可能性もなきにしもあらず。

 公園を後に、買い込んだ本の包みを小脇に抱え小雨の止みかけた表通りを歩くと、大部分は目下建設中の店舗。程なく宝石の土産物屋として開店し、各地からやって来る観光客相手にニセモノ、紛い物を売りつけることだろう。これもまた「政経合一」が“売り”の管理体制を布く「畹町経済開発区」の現在の姿だ。

 畹町を離れ次の目的地である瑞麗に向かう。途中で昼食時間となり、道路沿いの小型体育館のようなレストランに立ち寄る。三方に壁はなく風が吹き抜けて心地いい。残る一方には4,5m×15mほどの真っ赤な幕が引かれている。幕の左端は南僑機工の生みの親といわれる陳嘉庚の等身大よりやや大きな全身写真で、右端は滇緬公路の路線図。ど真ん中に大きく左から右に「“重走南僑抗日滇緬路萬裏行進”活動 歡迎宴會 中共徳宏州委 州人民政府」と記されている。「南僑の抗日滇緬路を重(たず)ね走(ある)く万里の行進”活動」を中共徳宏州委と州人民政府とが宴席を設けて歓待したのだろう。

 「里」と書くべきところを「裏」としているところがゴ愛嬌だ。どっちも「li」の音だから間違ってしまったということだろうが、そこがなんとも間が抜けていてオカシイ。

 じつは1年ほど前の2011年6月、マレーシア、シンガポール、中国などから集まった80人ほどが22輌の四輪駆動車に分乗し、南僑機工に縁のシンガポール怡和軒倶楽部を出発しマレーシア、タイ、ラオスを経て雲南入り。以後、昆明から滇緬公路を西に向かい、保山から龍陵、芒市を経て畹町に。もっとも大部分は往時の滇緬公路ではなく、上海と瑞麗を結ぶ高速国道320号線を走ったはず。全工程36日。盧溝橋事件の起きた7月7日には、昆明で集会を開き、南僑機工による抗日運動への貢献を讃えて気勢を挙げたらしい。

 この活動への最大のスポンサーはマレーシアで海鴎集団なる企業集団の総裁を務める陳凱希。マレーシアと中国との友好を掲げる馬中友好協会の秘書長だそうだが、どうやら背後には共産党の教育・宣伝中枢である中共中央宣伝部(中宣)と雲南省政府が控えているように感じられる。

 日本人からするなら南僑機工など遠く思い及ばない。援蒋ルートも滇緬公路も、ましてや騰越・拉孟・龍陵の玉砕も民族の記憶の彼方に消え去る一歩手前だ。だが“民族の怨念や敵愾心”に火を点けるべく、南僑機工の歴史が掘り起こされ、東南アジア華人青年を動員した反日運動は滇緬公路を舞台に繰り返される。知らぬは日本人ばかりなり。《QED》