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樋泉克夫教授コラム
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【知道中国 760回】 一ニ・六・初七
――瑞麗の街角で見かけた「支那」
瑞麗の街に入る手前で眼に入ってきたのは、またもや巨大看板だった。「中国第一家境内関外辺貿市場 新特区・新市場」と大きな文字の下に、「出口百貨区・電器電子区・針紡織品区・五金機電区・摩配汽配区・洋貨名牌区・外貿服飾区等」とやや小ぶりの文字が並び業務内容が記されている。文字から判断すれば、中国国内に最初に設けられた国際商業特区ということだろう。広大な敷地に輸出百貨、電器・電子、紡織繊維、金物・機械、自動車・バイク部品、海外高級ブランド品、外国服飾品など扱う商品別に専門区域を設定し、内外の輸出入業者を集め、辺境での取引を一括管理しようという魂胆らしい。
看板の後方に広がるのが中国第一家境内関外辺貿市場だろうか。新築店舗が延々と軒を並べている。第一印象では営業をしている店舗は少なそうだ。いずれ業者がワンサカと集まり商売繁盛間違いなしと、地元政府幹部は不動産業者と共にソロバンを弾いているに違いない。取らぬ狸の皮算用。それとも不動産業者とつるんだ公財私用(ヒトのモノはオレのモノ)式の権力濫用商法か。掃いて捨てても、「越後屋」は雨後の竹の子のように次から次へと生まれてくる。野蛮市場経済なればこそ。ヤッチャ場経済の必然の帰結だろう。
やがて歩道には椰子の並木が植えられ、ミャンマーやタイの伝統様式を模した建物も目立つ、どこか南国風の瑞麗の中心街の広場へ入った。すると、真正面にミャンマーの寺院風の巨大な建物が構えている。「中華人民共和国瑞麗東口岸」の文字が見える。国境関門だ。腕町が何の変哲もない橋でしかなかっただけに、国境貿易における瑞麗の重みがヒシヒシと感じられる。
関門の下を車がひっきりなしに行き来しているが、指呼の先のミャンマー側からは「木姐黄金宮旅游接待処」の漢字看板がこちらを向く。木姐とは国境を接したミャンマー側の地名であるムセーの漢字表記だ。聞いてみると、バックパッカー用の簡易宿舎らしい。
広場の周りには宝石などを売る土産物屋が軒を連ねているが、ある店先に「320国道終点」と「三龍匯瑞」なる2つの看板が立て掛けられていた。後者は4文字を挟むように右側に「印支那九洲通達 滬史滇三龍匯瑞」、左側に「上海・滇緬・史迪威」の文字だ。上海が起点の320号国道の終点が瑞麗だから「320国道終点」は判るが、「三龍匯瑞」は何を指すのか。おそらく「滬」は上海だから320号国道で、「滇」は滇緬公路。ならば「史」は。
しばらく考えてハタと気づいた。「史」はインド東部のレドを起点とするレド公路。中国語では中印公路と呼び、戦争当時この地域の司令官だった米軍のJ・スティウェル将軍に因んで45年に蒋介石が提案してスティウェル公路(漢字で史迪威公路と表記)と改名された援蒋ルートのことだろう。つまり3匹の龍に喩えられた320号国道、滇緬公路、史迪威公路はインドシナと九洲(ちゅうごく)を四通八達し、瑞麗で合流すると表現したいらしい。
それにしても、である。「史(迪威公路)」はインドと、「滇(緬公路)」はミャンマーと、それぞれ中国を結ぶが、インドシナは関係ないはず。まさかミャンマーはインドシナには入るまい。だとするなら支那九洲の4文字を合わせて「ちゅうごく」といいたいのか。いずれにしても、滇西の地では支那の2文字はタブーではないらしい。
瑞麗の裏通りを歩く。向こうからミャンマーで見慣れたピンクの衣装の尼僧の集団が、ミャンマー語で楽しそうに喋りながら歩いて来る。そこで唯一知っているミャンマー語で「ミンガラバー」と挨拶する。一瞬、ホンワカとミャンマーの風が吹いたようだ。《QED》
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