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樋泉克夫教授コラム
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【知道中国 765回】 一ニ・六・仲七
――墓も国境を越える
日本軍は一帯の山々の頂の要所を押さえることで、“東洋のジブラルタル“とも呼ばれた恵通橋までの滇緬公路を制圧しえたわけだ。だが圧倒的物量を誇る米式重慶軍の前に「陸の硫黄島」とまで形容される苦戦を強いられた。死力の限界を超えてもなお戦ったといわれる地獄の「拉孟から生還したのは、せいぜい、千三百人のうち、多く推定しても二、三十人ぐらいである」(『龍陵会戦』)。
もちろん、今、走っている道は当時のままではない。道幅は広がり舗装され、快適ではある。だが地形が大きく変わるわけはない。急峻な山々の麓あたりに、時折、怒江の赤茶けた川面が顔を覗かせる。遥かに眼下に霞む山裾から霧が湧きあがり、山肌を駆けあり、見る見るうちに山頂までをスッポリと包み込む。日本軍の勇士も米式重慶軍の弱卒も、この霧には共に悩まされたことだろう。時には濃霧が敵から我が身を守ったこともあったに違いない。ガラにもなく感傷に浸っていたが、そうもしていられなくなってきた。じつは、車窓から目に飛び込んでくる墓が気になって仕方がなくなってきたからだ。
道路の左右の畑や疎林のなかに点在する墓の正面に位置する墓碑が、全て怒江を向いている。山の傾斜地に建つ墓を背に前方に河川を眺め、左手から右手に流れている場所が墓地として最高の立地ということになる。もちろん河川がなかったら湖でも海でもいい。こういう風水の考えに従うなら、ここの墓の立地は最高だが、そんな点が気になったわけではない。目にする墓の形の全てが、先年、ミャンマーのマンダレーからラシオへの道中や北タイやラオスで目にした華人の墓と全く同じ形式なのだ。
地面に高さ50cmから1mほどの棺よりやや大きめの台を築き、その上に棺を、足を山側に、頭を谷側に(ここでは怒江に向けて)安置する。全体を石の板でスッポリと覆い、頭の部分の先端に墓碑銘を刻む。一般に全体は亀甲模様でデザインされているが、なかには中国古代からの親孝行説話のシーンを側面に彫刻したものもある。
初めて中国人の葬式や墓に興味を持ったのは留学時代の香港。42年前のことである。以来、中国や海外の華人居住地域における墓地や墓の観察歴は長く、もちろん多くは飛び入りや押しかけだが葬式参加経験も豊富だと“自負”しているが、こういった形の墓はミャンマー東北部の華人が多く住む一帯、それに北タイの元国民党兵士の墓地以外では見かけたことがない。怒江沿いの一帯からミャンマー東北部、それに北タイ、ラオスの雲南国境沿いを包括する広い地域の葬送文化は同じといえるのではないか。彼らは徳宏タイ族景頗族自治州というゲットーに閉じ込められて住む少数民族ではない。れっきとした漢族だ。いいかえるなら、その墓こそ雲南西部、ミャンマー、タイ、ラオスの間の国境を越えて、漢族が古くから行き来していたことを物語っているのだ。
かつて中華帝国は、雲南の民が生存空間として往来していた現在のミャンマー、北タイ、ラオスをも自らの版図であると看做していた。90年代初期に至り、共産党政権は毛沢東時代に国境を閉じていた「竹のカーテン」を自ら取り外し鎖国政策を廃止し、国境関門を南に向かって開け放った。共産党政権は中華帝国に先祖帰りをしたのだ。いまや異国である地に住む漢族の末裔に「血は水よりも濃い」と呼び掛け、金満路線を驀進する共産党政権と手を組めばカネ儲けの道が開けると誘う。ならば悪魔とでも手を組みますよネッ。《QED》
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