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樋泉克夫教授コラム
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【知道中国 767回】 一ニ・六・念一
――「龍陵抗戦記念広場修建碑」が語る龍陵の役割
龍陵の街の中央部に「龍陵抗戦記念広場」がある。日本軍が備えた鉄筋コンクリート製のトーチカが、メインストリートに面した広場の真ん中辺に「日軍罪状遺跡」として晒されている。それを除いたら、これといって特徴のない小さな広場だ。
その広場の一角に、文字の刻まれた巾30cm、高さ2.5mほどの石の板を貼り付けたコンクリート製の壁のようなものが立っていた。最初の1枚には大きく「龍陵抗戦記念広場修建碑記」と刻まれている。壁の前と後を合わせて20枚ほど。1枚に縦1行30文字で4行ずつの碑文が続いている。
「龍陵は祖国西南の辺境、怒江と龍川の間に位置し、隣国ミャンマーの果敢県とは川を挟んで互いに望める。歴史古く麗しい辺境の地には漢族、イ族、リス族、タイ族、アチャン族など27万の各民族同胞が暮らす。龍陵は古くから西南シルクロードの重要な要衝であり、抗戦時に建設され県境を貫く滇緬公路(現在の三二〇国道)はミャンマー、タイ、南洋に結ばれる国際通路の要道であり、西南の国防上の要だ」と書き出された文章は、共産党中央の的確な指導、龍陵地方幹部による知略の限りを尽くした巧妙な作戦、末端党員の犠牲を恐れない戦闘があったればこそ日本軍との戦闘に赫々たる戦果を挙げたという“自慢話”が延々と続くが、どれをとってもウソ、デッチアゲに近いだけにダラダラと長文になってしまうのは致し方がなさそうだ。ウソにウソを重ねれば、そうならざるを得ない。
碑文中の果敢県とは、明代に移住して以来、ミャンマー東北部に住み続ける漢族の末裔が居住する地域を指す。彼らはミャンマー中央政府軍と衝突を繰り返している(【知道中国 273回】参照)。近年、同地への漢族の新規流入もみられるとの報告があるが、この碑文を読み進む限り、異国のミャンマーであるにもかかわらず、果敢県も同じく漢族の末裔が住んでいるのだからという理由で、自らの領域と看做していると受け取れるから身勝手が過ぎる。西南シルクロードはインド洋を越えミャンマーから雲南を経由するルートだが、これ以外に砂漠を越える陸のシルクロード、インド洋を横切りマレー半島を迂回し南シナ海を経て福建の泉州に到る海のシルクロード――シルクロードは3ルートあったとしている。
碑文をメモしていると物珍しそうに老人が近寄ってきた。暫し筆を止めて立ち話。愛国教育基地を回っている日本人だと名乗ると、「愛国教育基地。そりゃあ、なんだい」。そこで愛国教育基地のゴ説明を。「フーン、そういうもんかい」。碑文の内容について尋ねると、「誰も読まんヨ」と、たったの一言。 この冗長な碑文の最後は「中共龍陵県委員会、龍陵県人民政府 二〇〇四年十一月」で終わっているが、やはり注目すべきは「二〇〇四年十一月」だろう。ここだけではないが、芒市に到着してから回った各地で目にした「抗日」関連施設や記念碑はほぼ例外なく2004、5年以降、つまり胡錦濤政権になってから整備・建設されているように思える。
愛国主義教育基地建設に象徴されるように、一般には反日教育は90年代以降の江沢民政権によって徹底・強化されたと伝えられているが、芒市、畹町、瑞麗、拉孟、恵通橋、龍陵で接した限り、この一帯における「抗日」を掲げる施設や建造物は胡錦濤政権以後のものが圧倒的だった。わずか数日の経験からの判断だが、同政権は国境を越えた南の地域とより緊密な一体化を進めることで滇西地方、つまり雲南省西部における経済開発を目指しているようだ。国境を越えた広い地域の一体化には「抗日戦争」を持ち出すのが得策という考えだろう。龍陵で宿泊した龍陵賓館別館食堂の壁が、そのことを物語っていた。《QED》
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