樋泉克夫教授コラム

 【知道中国 768回】            一ニ・六・念三

   ――これも1つの統一戦線工作だろう

 3m×10mほどの大きさはあろうか。食堂真正面の壁面は濃い紅と薄い黄色に彩られ、上の部分の左から右に「2012中国・保山全国汽車場地越野錦標賽」、その下の段に同じく左から右へ「曁首次届史迪威公路越野挑戦賽」、中央部に大きく「歓迎宴会」、下の端の方に「中共龍陵県委員会 龍陵県人民政府 二〇一二年三月三十一日」と記されている。加えて左側の4分の1ほどのスペースに悪路を走る四輪駆動車、右側にはインド東部=ミャンマー北部・東北部=雲南西部を結んだ大きな道路地図が描かれていた。

 「汽車場地越野」とは四輪駆動車によるオフロード・ラリーのことだろう。いわば「2012中国・保山全国汽車場地越野錦標賽」は2012年実施の保山地区の悪路を四輪駆動車で疾駆するオフロード・グランプリを、次の「曁首次届史迪威公路越野挑戦賽」は文字をそのまま読めば、史迪威公路を舞台に第一回のオフ・ロード・チャレンジレースが併催されたことを指す。今年3月31日、2つの自動車レースへの参加者に対する歓迎宴会が中共龍陵県委員会と龍陵県人民政府の主催で、ここを会場に行われた――食堂の壁面が、そのことを物語っている。 

 この際、規模の大小は大した問題ではない。自動車レースが行われ地元共産党委員会と政府が歓迎宴会を開いたという事実、それも最初の史迪威公路越野挑戦賽が重要なのだ。

 史迪威とは在中華民国大使館附陸軍武官兼蒋介石軍事顧問、中国・ビルマ・インド戦域米陸軍司令官、連合軍東南アジア軍副最高司令官などを歴任し、日中戦争においては最高責任者として蒋介石政権に対する米軍軍事支援作戦を担ったジョセフ・スティルウェル将軍のスティルウェルの漢字表記だ。つまり史迪威公路とは、滇緬公路を使っての援蒋ルートが昭和18(1942)年に日本軍によって遮断されたことから、その年の12月に同将軍指揮で建設が開始されたもう新たな援蒋ルートを指している。 

 インド東部アッサムの鉄道終点であるレドを基点に、ミャンマー北部のフーコン渓谷(ここでも日本軍は死戦を展開した)を通過し、ミャンマー北部要衝のミートキーナで2本に枝分かれし、1本は真っ直ぐ東に向かって国境を越え中国入りし、騰越(現在の地名は騰冲。ここでも日本軍は玉砕している)を経て龍陵に繋げる。残る1本は国境に沿うように南下し、ムセーから畹町に伸び滇緬公路に合流し龍陵へ。2本は龍陵で交わり、以後は怒江を渡河し、保山、大理を経て昆明へ。45年1月12日にレドを出発した最初の輸送車列隊は、2月4日に昆明に到着している。

 スティルウェル将軍は当初は蒋介石・宋美齢に重んじられていたが、次第に不満を募らせ、結果として蒋介石に疎んじられた。とはいえ、そこは“大人”だ。蒋介石はスティルウェルの功績を讃え、45年年頭に新たな援蒋ルートを「史迪威公路」と呼ぶべきとした。 

 だが、この際、蒋介石とスティルウェルの関係などはどうでもいい。やはり考えるべきは、今頃になってオフロード・レースの舞台として史迪威公路が復活したことだろう。

 確かに多くの難所を抱えた史迪威公路のなかでも最もスリリングな難関は、日光のいろは坂をさらに急峻・大規模にしたような「二十四拐(24曲がり)」らしい。写真で見ただけでも、オフロード愛好家ならずとも一度は走行してみたい気もする。だが、そんな他愛もない理由で史迪威公路が持ち出されたわけでもないだろう。畹町で知った「重走南僑機工抗日滇緬路」運動と同様な臭いが、史迪威公路越野挑戦賽にも感じられたのである。《QED》