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樋泉克夫教授コラム
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【知道中国 769回】 一ニ・六・念五
――これを「抗日戦争ビジネス」とでもいうのか
やがて、史迪威公路越野挑戦賽がパリと西アフリカのダカールとを結ぶパリ・ダカに匹敵するような第一級の国際的オフロード・レースに化けないともかぎらない。
将来、昆明から東インドのレドまで3ヶ国を跨いだ自動車レースが世界の注目を集めれば、否が応でも史迪威公路の名前が注目される。すると、巧まずして雲南=ミャンマー東北・北部=インド東部を舞台にした「抗日戦争」が語られ、米中協力の歴史が浮かび上がってくることになるだろう。この地域に北京中央の視線を向けさせて一帯の開発を有利に展開することも、中国や台湾に加え華人企業、あわよくばアメリカ企業を唆して史迪威公路越野挑戦賽のスポンサーに名前を連ねさせることも可能だ・・・。あれこれと妄想は浮かんでは消えるが、やはり滇西一帯開発にとっての最大の切り札は「抗日戦争」なのか。
もはや滇緬公路と史迪威公路は、単に「抗日戦争」を記憶に留める“装置”として扱われているわけではなさそうだ。戦争を“過去の不幸な出来事”として終わらせるようなバカなことはしないはず。それが蒋介石麾下の中国兵を傭兵化した米軍主導に拠る日米戦争であったにせよ、表向きは飽くまでも米中協力による「抗日戦争」としておきたい。であればこそ、滇西のみならず国境を越えて南方や西方に広がる地域に多く残る「抗日戦争」の遺産を利用しないわけはない。
いわば「抗日戦争ビジネス」とでもいうべき企図が、一帯で静かに進められているように思える。図らずも2日後のこと、その一端を騰越、現在の騰冲でマザマザとみせつけられることになるのだが、その前に・・・。
――「滇緬公路は、龍陵の街を貫いて東山の前方に延び、そこで三叉路になる」。「右へ行けば拉孟に至る。左が騰越へ行く道である」と古山が『龍陵会戦』で綴っているように、当初の予定では龍陵に1泊した後に、龍陵の中心を貫く大通りを東に抜け、突き当りの三叉路を左に進んで騰冲(かつては騰越と呼んだ)に向かう予定だった。
そのまま進んでいたら、おそらく史迪威公路の往時の姿の片鱗でも感ずることができただろうが、龍陵から騰冲の間の道路事情が悪いとの理由で芒市にとって返し、道を迂回して騰冲に向かうこととなった。とはいうものの、たとえ一部であろうと史迪威公路に接することができなかったことは残念至極。案内役が道路事情を考慮して計画を変更してくれたのだろうが、3月末には史迪威公路越野挑戦賽が実施されていたはずだから、些か無理をすれば走行できないわけはなかったろうに。いささか勘繰ってみるなら、日本人には見せたくない、あるいは見られたくない何かが、龍陵から騰冲の間にあったのか。ならば無理をしてでも直接、龍陵から騰冲へ向かうべきだったろうに。
致し方なく引き返し、芒市の共産党委員会と人民政府に向かった。ミャンマーやタイの寺院を思わせわせる屋根を乗せた正門門柱の右に芒市人民政府と、左に芒市共産党委員会と記された大きな看板が下がっているが、その地の黄金色が陽光にキラキラと栄え、それだけでも、ここが芒市の中心であり、一帯を睥睨している権力の中心であることを容易に想像させてくれる。この日は5月1日。「労働節(メーデー)」で休日。辺りは閑散としていた。南洋の濃い緑の木々や原色の花の咲き乱れる構内を進むと、そこに日本軍(第56師団)司令部の防空壕が遺されていた。もちろん「芒市・日軍罪証遺跡」の標識あり。《QED》
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