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樋泉克夫教授コラム
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【知道中国 772回】 一ニ・七・初四
――毛沢東思想はリッパに生きていた
それにしても、毛沢東が説いた「為人民服務(人民の為に服務せよ)」ほど、世の中を誑かせた言葉はなさそうだ。一貫して「為人民服務」と人民を叱咤激励した。日本ですら文革時代、毛沢東に心酔しきっていた方々は、毛の説く「人民」を中国伝統の表現である老百姓(じんみん)と謳いあげ、あるいは共産党史観でいう人民と捉え、「為人民服務」を崇高な自己犠牲の精神であり、それこそが毛沢東思想の真髄であるかのように吹聴していた。
だが、それは毛沢東一流の“詐術”だった。事実、権力を握って後の毛沢東の歩みを振り返ってみれば、じつは中国には人民は毛沢東しかいなかったことが判るだろう。「人民」は「オレ」、つまり毛沢東自身。草民よ、オレの為に粉骨砕身・不惜身命で働け、である。 50年代半ばに思想信条の発表は自由だとして共産党への批判さえ容認したものの、民主派知識人から激烈な共産党独裁批判が起こるや、「反革命だ」「国家に対する反逆だ」「許しがたい右派だ」と声を荒げ、反右派闘争を展開し共産党批判を徹底して封じ込めたのは毛沢東だった。言論の自由と猫なで声をあげながら共産党に対する不満・不平分子を誘い出したのは「陰謀」だとの批判に、陰謀なんぞではない「陽謀」だと嘯いたのは毛沢東。
58年にはフルシチョフの向こうを張って、売り言葉に買い言葉。ソ連がアメリカを追い越せるなら、中国は15年で当時世界第2位の経済大国だったイギリスを追い越して見せると大見得を切ってみせた。大躍進政策を掲げ無謀極まりない急進的社会主義化を進め、結果として4000万人を超える「非正常な死者」と呼ぶ餓死者をだしながら、「我われには社会主義の経験が不足していた」でお茶を濁し、責任問題を封じ込めたのは毛沢東。
中国全土を阿鼻叫喚の地獄絵図に塗り替えながら、文革に一応の区切りをつけた69年の党大会を「大団結の大会、大勝利の大会」と締め括ったのは毛沢東。
中国史上稀代の悪党として扱われる曹操は小説や芝居のなかで、「寧可我負天下人、天下人不負(オレが天下に背いても、天下をオレには背かせない)」と嘯く。おそらく毛沢東も小説や舞台の上の曹操と同じ心境では・・・どっちにしても身勝手なのだ。
文革初期のことだが、『八億の毛沢東』というトンデモ本が出版されたことがある。毎日新聞の新井宝雄とかいう毛沢東狂信徒が書いたように記憶しているが、その趣旨は、文革という「魂の革命」を経て中国人は毛沢東の「為人民服務」の教えを体得する。当時の人口は8億人といわれていたが、そこで中国には8億人の毛沢東が出現する。文革は中国人全体を毛沢東に大改造するための大試練だ、というわけだ。新井は『八億の毛沢東』に加え、『林彪時代』とかいうトンデモ本も書いていたように記憶しているが。
毛沢東の死から35年余が過ぎた現在、芒市政府庁舎の玄関ホール中央に記された「為人民服務」を目にした時、毛沢東を信じてもいないくせにウソもいい加減にしておけと、彼らの事大主義、タテマエ主義に呆れ返った。だが「四項制度」「行政問責事項」「国家工作人員十条禁令」で言わんとしていることを裏返して一言で表現するなら、「為人民服務」ではないか。「人民」、つまり幹部であるオレ様のために「服務」せよということだ。だからこそ「為人民服務」の刻まれた衝立は、庁舎の内側ではなく外側、つまり市民の側に向けられていたのだ。じつは芒市でも幹部は往年の毛沢東思想をシッカリと学習していたのだ。
「百吏は恭倹敦敬忠信・・・自宅の門を出ると官衙(やくしょ)に、官衙を出れば自宅に直行して私事なし。上司に追従せず同輩と徒党を組まず、高く心を持って万事に精通し私心なし」という『荀子(彊国篇)』の一節など、蛙の面になんとか・・・デス。《QED》
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