樋泉克夫教授コラム

 【知道中国 774回】           一ニ・七・初八

 ――「騰越は支那帝国の西南の門に当る要地」

 「密支那」とは“秘密の支那”ではないし、ましてや一たび日本人が口にすれば怒声を挙げ、怒髪点を突く勢いで使用禁止を“厳命”する「支那」とは関係ない。道路標識のあった地点から直線で110kmほど西に離れた北部ミャンマーの要衝で知られたミートキーナの漢字表記で、密(ミ)支(ジ)那(ナー)と読む。
ミートキーナ西方のフーコン谷地でも日本軍は米式重慶軍の前に死戦を余儀なくされた。

 騰冲(以後、暫くは引用の便などを考え、旧地名の騰越とする)とミャンマー北部との間には、古来、①ミートキーナより猛卞、磐西を経て騰越へ。②バーモ(漢字では八莫とも新街とも表記)から蛮允、干崖を経て騰越へ――2本の主要通商ルートがあった。ミートキーナをさらに西へ進むと東インドのアッサム州の鉄道拠点レドへ繋がり、騰越からは龍陵を経て保山、大理を経て昆明へと進めた。もちろんバーモから南下すればミャンマー中部のマンダレー、さらにヤンゴンを経てインド洋に繋がる。やや大袈裟に表現するなら、騰越はイスラム、ヨーロッパから東インドを経て中国本部へと続く東西交易ルートの要衝に位置していることになるわけだ。これで滇西山中のちっぽけな街でしかない騰越が、古来、陸路通商場として栄えたことが判るだろう。

 歴史を振り返ってみると、19世紀末以来、殖民地のヴェトナム経由で雲南省への進攻を目指していたフランスは、1895年には清朝との間に通商条約を結んでいる。日清戦争の翌年で、日本が台湾を割譲した下関条約が日清間で締結された年だ。清朝崩壊を決定した辛亥革命の前年に当たる1910年、北ヴェトナム最大の港で知られたハイフォンから昆明を結ぶ滇越鉄路を1910年に建設し、フランスは本格的な雲南進攻を始めた。

 一方のイギリスは清朝との間で1889年に条約を結び、1899年に騰越に領事館を設置し、1902年には税関を置いた。東からのフランスに対抗し、自国の殖民地であるインド、ビルマを経て西から雲南を経由して中国本部への進攻を企てた。そこで鉄道建設ということになった。1905年から07年にかけて一帯を測量し、騰越を中心に、西はバーモへ、東は大理へと繋がる軽便鉄道建設を計画したが頓挫してしまう。

 かくて雲南省をめぐる両国の戦いではフランスが優位に立った。雲南省内の鉄道用地は清朝が提供したが建設はフランスの資金。そこで、満鉄に似た形で鉄道用地も事実上フランスの所有に帰した。時代はやや下って満州事変の翌年で上海事変が勃発した1932年、雲南省を旅したアメリカ人新聞記者のW・バートンは上海の英文雑誌に発表した「雲南は満洲と同じ道を辿るか」と題する論文で、「いまやフランスは雲南省の喉元を押さえ、着々とその勢力を増している」と、雲南省におけるフランスの圧倒的な存在感を伝えている。
再び時代は前後するが、日露戦争開戦から3年後で日韓併合3年前の明治40(1907)年晩秋、橿原・平安・明治の三神宮に靖国神社神門などを設計した文化勲章受賞者の建築家・伊東忠太(1867年~1954年)は、各地に残る古建築を調査するため上海を発ち、貴州省経由で昆明に至り、滇西からバーモ方面へと抜ける旅にでた。

 その旅を綴った「支那旅行談」の「二六 騰越庁」の項に、「騰越は支那帝国の西南の門に当る要地であって、英国総領事館が置かれてある。・・・緯度の割合には気候温和で・・・地味も相応に豊穣である。・・・騰越の城は囲六里、人口九千・・・総領事リットン氏が、是非領事館に泊まれと云って非常な厚意を尽くしてくれた」と記している。「非常な厚意」の背後に、2年前の日露戦争勝利と強固な日英同盟があったことは想像に難くない。《QED》