樋泉克夫教授コラム

 【知道中国 781回】                     一ニ・七・念二

  ――過剰なばかりの米中協力頌歌

 騰冲で国殤墓園を訪ねた。南方から騰冲の街に入る幹線道路を進むと、左手に白い塀に囲まれている。道路を隔てた小高い山は日本軍が陣地を築いた来鳳山だ。

 幸運にも戦勝国となった中華民国の蒋介石政権が滇西戦線で戦陣に斃れた兵士を悼んで1945年に建設したそうだが、ならば国殤の「国」は中華人民共和国ではなく中華民国ということになろうか。なぜなら、この墓園が建設された当時、この地上に中華人民共和国という共産党政権の国家は生まれていなかったからだ。

 広大な墓域に入るとすぐの右手には、高さ1m、直径1.5mほどの土饅頭状の墓があった。墓石に「倭墓」と刻まれているところをみると、日本兵のものだろう。当時は日本軍でも葬ってやろうという“殊勝な気持ち”を持ち合わせていたのだろう。だが、あまり感心できない倭墓からして、見せしめ、あるいは戦勝国の驕りが感じられて気分のいいものではない。

 倭墓を背にすると、目の前に緑の芝生が広がる。農民兄弟が日本兵を打ち据える姿、母と子供とで援蒋ルートや滑走路建設用に石を砕く姿、男たちが道路建設現場で石のローラーを引く姿、滇西乙女が墜落した米軍航空兵を介護する姿、抗日戦線に赴く少年兵の健気な姿などのブロンズ像が、そこここに置かれている。いちばん奥まった場所には胸を張った2人の軍人像が建つ。足元には花輪が置かれている。向かって左が史迪威(スティルウェル)将軍で右が陳納徳(シェンノート)将軍。両者共に蒋介石支援では軍功を挙げたが、いわば蒋介石・宋美齢への忠誠争い、同夫妻からの寵愛を廻って鞘当てを繰り返し険悪な関係だったと伝えられる両将軍の像が仲良しげに立っている姿は一種異様だ。

 像が建つ芝生地の左側の奥まったところには、高さ5mで長さが30mほどの花崗岩の長大なレリーフの壁が建っている。滇緬公路や史迪威公路の建設に邁進する中国人の姿、延々と曲がりくねった両公路を援助物資を満載して奔る軍用トラックの車列、上空を飛ぶ米軍の輸送機や戦闘機、抗日に決起する住民、死をもおそれずに奮戦敢闘する名もなき兵士たち――米中双方の将士の死力を尽くしての闘いと滇西各地住民が献身的協力とによって「日寇殲滅」を達成した物語が、花崗岩の壁に刻まれている。

 墓園の中心となるのは1人1人の兵士の墓碑がびっしりと並んだ段丘状の墓地だが、その手前に建つ忠烈祠に入って驚いた。正面中央の壁には孫文像。その右が中華民国国旗で左は中華民国軍旗。孫文像の下には「抗日忠烈 霊位」と記された位牌が置かれている。記録に拠る建設当時の内装そのままだ。内装だけではない。外観もまた建設当時を思わせるように汚れがない。柱の紅と屋根の瓦の黒が、周囲の鮮やかな緑に映える。

 忠烈祠の左には「滇西抗戦盟軍陣亡将軍士官記念碑」と名づけられた石碑が建ち、「盟軍」、つまり米軍19人の死者の霊が祀られている。段丘状の墓でもそうだったが、ここでも花輪が手向けられ、死者への篤い思いが“演出”されていた。

 ブロンズ像にせよ花崗岩にせよ、忠烈祠も含め、不思議なことに墓園全体に共産党の「き」の字も感じられない。まるで1945年当時にタイムスリップしたようだ。漢族や少数民族を問わず名もなき滇西住民も加わっての米中協力による「日寇殲滅」への頌歌を、墓園全体が奏でている。そのうえに中国におけるこの種の施設と際立って違う点は、余りにも整備され、綺麗であることだ。これには何か裏があるはず。ないわけがないだろう・・・に。《QED》