樋泉克夫教授コラム

【知道中国 783回】                      一ニ・七・念六

 ――滇西抗戦博物館は新たな戦場だった

 中国駐在米国大使館付武官が偶然にもスティルウィル将軍の遠縁だった、などということがあろうはずがなかろうに。おそらく米政府の外交当局と軍部は“計算”したうえで武官人事を発令したに違いない。解放軍であろうとも、「抗日戦争」の英雄の子孫を冷たくあしらうわけがない。やはり外交的配慮、いや深謀遠慮というものだろう。

 翻って日本の対中外交を考えた時、たとえば「日中国交正常化」の「井戸を掘った人」と中国から厚遇される田中角栄の血筋の誰かを外交官に仕立てあげ、北京の日本大使館に送り込むことなど、政府・外務省が考えたことはないだろうか。かりにも田中角栄の一族である。ポーズだけとしても、共産党政権はフンとばかりに鼻先であしらうようなことはしないはずだ。少なくとも「東京都による尖閣購入は日中友好に水を差す」といった類の、サッカーでいうなら敵に勝利を献上してしまう自殺点のようなブザマな発言をしただけでなく、その発言の当否に対する外交的配慮を寸毫もみせることなく恬として恥じず、ただただカネ儲け一途に人生を送ってきただけの大使を置くよりは数倍もマシに違いない。

 だがよくよく考えれば、いや考えなくても田中角栄の血縁といってはみたものの、「あのー、もしもし、もしもし」などと周章狼狽のままに滑稽な発言を繰り返し、ドジョウ宰相から「無知の知」などと意味不明なままに擁護された防衛大臣を生んだわけだから、処置ナシだ。ないものねだり。やはり野に置け蓮華草・・・である。

 ところでJ・イースターブルークという名前は、確か滇西抗戦博物館の展示品でみたような記憶がある。 そこで改めてデジカメの映像記録を見直し博物館で記したメモを読み返した。すると、貴重な展示品としてガラスケースに収められた来訪者芳名簿に、その名前があったのだ。麗々しく展示された名簿の見開き左頁には参観感想の短い文章と共に彼の名前があり、右頁にはJ・スティルウィルの名前まで。

 J・イースターブルークが残した文章には「私は騰冲の人々が抗日戦争の歴史を記念するために為してきた努力に対し、尊敬と崇敬の念を持ちます。我われにとって歴史は永遠に忘れるべきではなく、米中両国民人民の間における関係は最も重要なものであります」との、J・スティルウィルの方は「博物館参観の機をえたことは望外の喜びである。当博物館は米中両国の将士が共同で戦った歴史を語ると共に、戦闘で犠牲になった兵士を記念している。我われは米中両軍の兵士の間の友誼をしっかりと記憶し、この友誼を未来永劫に持ち続けなければならない」との中国語の訳文が添付されている。前者にはJ・イースターブルークの漢字音表記で「約翰・依斯特布魯克(史迪威将軍外孫)」とあり、後者には「約瑟夫・史迪威(史迪威将軍孫子)」と記されていた。双方共に日付は「2009・4・28」だ。ブッシュ元大統領の書簡日付が満州事変勃発の9月18日と10日違いなら、こちらは昭和天皇誕生日と1日ずれているだけ。偶然というより、何か意図的なものを感ずるのだが。

 いずれにせよ、2009年4月末、爺さんであるスティルウィル縁の地を嫡孫と外孫の2人が連れ立って訪問し、VIP待遇で博物館を参観していたということだろう。

 援将ルートの史迪威公路建設に取り組んだスティルウィルと飛虎隊(フライング・タイガー)のシェンノート――陸と空から「抗日戦争」に積極的に関わり勇名を馳せた2人の米軍人は米中友好の「井戸を掘った人」として、これからも共産党と国民党を問わず時と場所に応じて持ち出されるはずだ。それを知るがゆえに米国もまた彼ら2人を利用し続けるだろう。滇西抗戦博物館戦争は形を変えた戦場・・・こんな思いが浮かんできた。《QED》