樋泉克夫教授コラム

【知道中国 788回】                     一ニ・八・初八

 ――“スーチー特需”の危うさ・・・滇西旅行の終わりに(上)

 最初に昆明に行ったのは1994年春。バンコクからだった。当時、共産党政権は天安門事件の後遺症を脱しつつあり、反転攻勢の狙いもあったのだろうか、李鵬首相を中心に「西南各省は国境関門を開いて南に向かって飛び出せ」と獅子吼していた。こういった動きのカギになるのは、もちろん西南地方の中心に位置する雲南省であり、省都・昆明だった。そこで昆明の現状を体感しようと、ノコノコ出かけたわけである。数年後に昆明では国際花博が予定されていたが、街のそこここには文革の痕跡も認められ、とてもじゃないが国際都市にはほど遠いというのが偽らざる実感だった。

 回教寺院を回ると多くの回族が祈りを捧げ、郊外には菜の花と連翹が咲き乱れ、雲南省の別名である滇の起源となった滇池では無数のかもめが乱舞していた。ちょうど祭りの季節だったのだろう。滇池近くの原っぱには屋台が並び、あちらこちらで繰り広げられていた昔ながらの大道芸に時の経つのを忘れた。1年中が寒くも暑くもなく春の季節。春城(春の都)の異名を持つ昆明にも、やっと脱毛沢東政治の波が訪れようとしていたのだろうか。

 人民元を持ち帰っても仕方がないと帰路の空港で売店を冷やかしている時、偶然に買ったのが「大西南 対外通道図」と名づけられた新聞紙見開き2頁大の地図だった。地図のど真ん中に昆明が位置し、雲南省を中心に時計周りに四川、貴州、広西と続き、さらにヴェトナム、ラオス、カンボジア、タイ、ミャンマー、インド、チベットが描かれている。雲南省交通庁航務処と昆明市測絵管理処が1993年1月に製作したものだ。

 まあ、どこといって特徴のない地図だろうと思っていたが、改めて見直してみて驚いた。西南・インドシナ・タイ・ミャンマー・インド東部を跨いだ中国版の物流ルート大改造計画であり、完成予想図なのだ。西南地方を経て周辺国に流れるホン、メコン、サルウィン、イラワジの国際河川が水路の物流幹線に、昆明をハブに国内外の主要都市への航空路が開かれ、既設に新設の鉄道路線が連結して四通八達する国際鉄道網が敷かれ、国境を跨いで縦横に高速道路が描かれている。それだけではない。裏面には幹線道路と水路拡張工事の基本的な建設コストの概要までが記されているのだ。

 周辺国を巻き込んでの物流インフラ大改造が、いつ決められたのか。当時、あれこれと調べてみたが、どうも共産党政権(+雲南省政府・昆明市政府)が“勝手”に進めていたようだ。力を頼んでの手前勝手、既成事実の積み重ね・・・いつもの手である。

 その数年後、アウンサン・スーチー弾圧で国際孤立を深めるミャンマー軍事政権に急接近し、北京によるミャンマーへの軍事・経済進出が話題になった。だが、我が国や欧米のメディアの大騒ぎをよそに、少なくとも物流インフラ建設は「大西南 対外通道図」に基づいて“粛々”と進んでいた。加えてスーチーが“民主派のジャンヌダルク”の衣装をかなぐり捨てリアルな政治家として登場した現在も、「大西南 対外通道図」に描かれた改造計画は、やはり“粛々”と進んでいる。もちろん、ミャンマー以外の地でも。

 今回の旅行で目にした上海と瑞麗を結ぶ320号高速国道にしても、あるいは昆明とバンコクとを繋ぐ昆曼公路にしても、既に「大西南 対外通道図」に描かれている。

 “スーチー特需“の実態を見極めないままにミャンマーに雪崩れ込む日本の危うさが、改めて実感できた旅だった。やはり滇西の地はミャンマーと地続きだったのだ。《QED》