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樋泉克夫教授コラム
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【知道中国 790回】 一ニ・八・仲二
――日本に勝機はあったのか・・・滇西旅行の終わりに(下)
「大西南 対外通道図」は、80年代末から90年代初頭にかけての共産党政権の発展戦略を具体化している。やはり極端に貧しい西南の発展を目指すには、歴史的に経て来た道を進むしかない。国境関門を南に向かって開け放ち、ミャンマーからヴェトナムにまで続く広大な地域を“自らの裏庭”に大改造することだ。その根底には、この地域を属領としてきた中華帝国の歴史があるだろう。この地域を、現在に至ってもなお漢族は属領視しているのだ。度し難いDNAである。
ところで日本は、いつから戦略的に雲南に着目するようになったのか。『戦跡の栞』(陸軍恤兵部 昭和13年)によれば、大正5年前後から大正末期にかけて昆明は100人ほどの日本人が在住する「親日都市」であった。「由来雲南省は極めて親日色濃厚な地であったが、満州事変に次ぐ今次(日支)事変によつて親日空気は完全に拭い去られ、殊に事変直後、北京、天津から一たん長沙に移転された清華、南開など排日各大学が本年三月に移転されて以来、この地の空気は最も強烈な抗日に転じ、(国民党が)省政府の実権を握るに至つてこの空気はますます助長され、相当多数を数へてゐた日本留学生出身の官吏は一人残らず放逐され」、ついには「抗日拠点」へと変容したわけだ。(引用文中の一部漢字を改めた)
日本軍の猛攻を前に南京を放棄し重慶を戦時首都とし、欧米からの援助ルートとして唯一残された滇緬公路を頼りに、蒋介石は抗日姿勢を見せる。対日戦略上、アメリカのルーズヴェルト政権は日本牽制を狙い、強大な日本軍を中国大陸に縛り付けておきたかった。そのためには、なんとしてでも中国を味方にしておかなければならなかった。加えて多くのアメリカ国民は、マスコミや教会団体などが垂れ流す「自由中国」「民主主義中国」「戦う中国」の情報に洗脳されていたという。
宣伝戦を制す。これも今に続く漢族のDNA.だ。ルーズヴェルトの“足元”を見切って無理難題を吹っかける。蒋介石とその周辺は、アメリカの武器貸与法援助をテコにアメリカの戦争支出をくすね、掠め盗ったのだ。アメリカから引き出した膨大な援助と最新兵器で装備した彼の最精鋭部隊は、彼を守るためのものである。だから、対日戦争の最前線に投入されることはなかった。一連の米中交渉を概観すると、蒋介石にとっての抗日とはアメリカから援助を毟り取る口実だったようにも思える。アメリカを以って日本を、返す刀で共産党を・・・つまり夷を以って夷を制し、異を制す、である。これも漢族のDNAだ。
重慶に逃げ込んだ蒋介石の息の根を止めるべく、日本軍は援蒋ルート切断に乗り出す。英軍、それにビルマに展開していた米中軍をインド東部に潰走させ、滇西までを押さえた。北ビルマを制圧した僅か1個師団の日本軍を恐れ、蒋介石軍は依然として雲南から動かない。苛立つアメリカ。堪忍袋の緒を切ったルーズヴェルトは1944年(昭和19年)7月、蒋介石に対し全中国軍部隊をアメリカ人軍事顧問のスティウェル中将の指揮下に置くべしと強硬に申し入れる。そこで蒋介石は嫌々ながらも麾下の米式重慶軍を滇西に投入した。
以後、戦況は一転し日本軍の逃避行がはじまるわけだが、かりに日本側がルーズヴェルト政権、アメリカ軍当局(統帥部と現地)、蒋介石政権、同政権に派遣された文官・武官のアメリカ人顧問団――彼らの間の思想信条や感情に基づく個人的対立までをも的確に把握し、命令系統の乱れや軍事作戦の遅滞・錯誤を正確に読み解き、彼らの間の矛盾を衝き、太平洋正面での作戦と連動させていたなら、はたして勝利の可能性はあったのではないか。
過度の作戦上位と情報軽視・・・日本が逸した“長蛇”は、余りにも巨きかった。《QED》
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