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樋泉克夫教授コラム
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【知道中国 792回】 一ニ・八・仲七
――古人曰く・・・「糞土の牆は杇(ぬ)るべからず」
『官徳』(梁衡 北京聯合出版公司 2012年)
「官」、つまり中央政府から地方政府までの幹部に「徳」を説き、実践させようというのだから、著者のような手合いを評して「愚ニアラザレバ誣ナリ」。つまり、あんなにバカなことをしているヤツは本人が余程のバカか、さもなくば世間を舐め切っている、となる。
先ず著者は「幹部になる前に人としての自分を鍛えよ。政徳を第一とせよ。官徳は指導幹部の“立身出世”の根本であるだけでなく、“立国”の礎でもある」と大前提を掲げた後、ゴ高説のゴ開陳に及ぶ。著者の主張の概略を以下に示しておくと、 ――官徳は社会の風紀を糾す指標であり、官徳こそが民徳を呼び覚まし、社会の風紀に大きな影響を与える。官徳が働かなければ、民徳は必ずや失われる。民徳を育てるためには、先ずは幹部が官徳を修めなければならない。官徳の質こそが社会文明の程度を決定し、官徳の水準こそが政権の興亡成敗を決定する。
地位の高い幹部が官徳を体現すれば、高きから低きに水が流れるように政治は遅滞なく行われるようになる。すべては公のため、民のためだ。誠実に身を処し、日々の業務を尊び、廉潔に努め、独立心を持ち、堅忍不抜の心を定め、謙虚に励み、広い心を養い、個人的な利害得失に対しては淡白であれ。幹部の政治的事績はその能力と徳によって定まるものだが、能力より徳が重要である。有徳無能なら少なくとも悪事を働くことはない。これに対し無徳有能な場合は、大々的に不正を重ねてしまうもの――
なにやら持って回った、取ってつけたような、判ったようで判らない主張が続くが、「中国共産党人は革命と建設の過程で、多くの道徳的模範を生み出した。たとえば偉大極まりない周恩来、真理を堅持した彭徳懐、一心を民衆に捧げた焦裕禄、直言居士の朱鎔基・・・彼らは新しい時代の官徳を体現している」と記していることから判断すると、彼らが「官徳」を体現しているということらしい。ということは、毛沢東の執事役に徹することで数々の政治闘争を生き延びること(周恩来)、バカ正直にも毛沢東本人に向かってアナタの政治はデタラメだから即刻中止すべきだと語りかけ失脚させられること(彭徳懐)、毛沢東の掲げる「為人民服務」を真っ正直に実践して疲労死すること(焦裕禄)、首相として最高権力者の江沢民への忠勤に励むこと(朱鎔基)が、「新しい時代の官徳」になるようだ。
ここで中華帝国以来の官吏の歴史を振り返ってみると、「貪官」と「清官」の2種類しかいない。前者は権力を恃んでの悪徳の限りを尽くす者で、圧倒的多数がそうだ。これに対して極めて少数派が後者で権力を弄ぶことなく清廉を第一とする。
中央から地方まで無徳有能な幹部が揃っている現状を「貪官栄え、清官滅ぶ」の歴史的教訓に重ね合わせて考えれば、著者による「官徳」の絶叫はヌカにクギ、馬の耳に念仏でしかないだろう。「今日の複雑な情況において、幹部の道徳修養を強化し、党の執政能力を高め、秩序ある経済発展を推進し、小康社会を築くことは、大政党にとって14億人民に対する歴史的使命であり、同時に世界に対する時代的責任でもある」。「誕生して90余年、8000万人超の党員を擁する大政党は、市場経済における新しい試練に真正面から対峙している」とか。この大仰な物言いは、なんとも虚しく空々しいばかりだ。
社会主義市場経済は、無徳有能で満身悪知恵の幹部にとって最高の培養器だった。《QED》
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