樋泉克夫教授コラム

【知道中国 796回】                     一ニ・八・念九

 ――針小棒大・被害甚大・責任不問・真相曖昧・一件落着・・・怨念沸々

 『1957年中国大冤案 漢陽事件』(劉富道 新鋭文創 2012年)
 
 この本は、1957年6月に湖北省の名門で知られた漢陽中学で発生した冤罪事件の顛末を詳細に綴っている。読み進むに従って、先ず漢族の持つ大袈裟な煽動体質があり、それに「超」の付くメディアの煽情・宣伝機能が加わり、さらに共産党の度し難い統治体質が相互に共鳴したからこそ発生したのではないか――こう思えてきた。

 事件の発端は57年度の教育発展計画だった。漢陽県には20校の初級中学があり、卒業生は1000人ほど。前年までは高級中学の漢陽中学へは90%が進学できた。だが教育発展計画が実施されると、農村部からの進学枠は5%にまで激減させられてしまうとの噂が流れる。そこで血気に逸る中学生が県の最高権力機関である党委員会に問い質そうと騒ぎ出す。

 かくして「諸君、我らが熱血は我らが胸に燃え盛る。振るえ、我らが拳という武器を。我らが希望を砕き、我らが前途を塞がんとする者どもを打倒し、我らが光り輝く前途を切り開き、我らが希望を永遠に違えることなく、前途を永遠に光り輝かせ、生活の永遠ある幸福を勝ち取ろう」と煽動する者が飛び出す。一部の跳ねっ返りが「ストでもデモでも構わない、要求を貫け」との“毛主席の教え”を持ち出し、不満と不安に駆られる仲間を煽る。なにしろガキのうちから大袈裟すぎるほどに大袈裟だから、じつに始末が悪い。

 そこで中学生が1日半のストを起こす。すると怒りに駆られた中学生の集団が武器を手に立ち上がるといったような噂が流れ、自ずから社会不安が募る。これを官製メディアが「漢陽で中学生による暴動性の騒乱事件発生」と報道し、確認を取ることもなく「怒りに駆られた中学生の集団が武器を手に“発電所に放火し、倉庫を襲撃し、刑務所に突撃して受刑者を逃そうとしている”」と書き飛ばし煽り立てる。不安は不安を招く一方で、地方政府幹部は自らの失政が公になってはマズイ。出世に響くとばかりに過剰反応をみせる。

 中学生たちが事実の確認のために県委員会に向かったところ、これを襲撃と看做した県委員会は労働者や農民に県委員会を守れと命令を下す。すると600人ほどが棍棒や農具を手に駆けつけて中学生を襲撃し、勢いに乗って中学校にまで押しかけ、徹底して痛めつけた。すると中学生は「全国人民に告げる書」なるものを掲げ、「自衛のために応戦した100人以上の仲間を、県委員会は不当にも逮捕した。ある仲間は縛られ吊るし上げられ徹底して殴られ、鮮血は止め処なく流れた。髪の毛を捉まれた女学生は際限なく殴られ白いシャツは真っ赤に染まった」と、激越で過激で禍々しい修飾語を満載した宣伝文を撒き散らす。

 県委員会が要請した上級組織の考察団は、一連の動きを反革命と認定した。事件発生から3ヶ月ほどが過ぎた9月6日、校庭に集められた中学生や市民1万2千人が見守る中、「漢陽一中反革命暴乱」の主犯とされる3人の教師は銃殺刑に処せられた。この間、教師らは上級裁判所に判決の不当性を訴えたが、すべて却下。処刑2日前、最高裁判所に当る最高法院は「死刑は即刻執行されるべし」との判決を下した。これにて一件落着だ。

 事件発生から30年が過ぎた86年。関係者の無実が法的に確定した。だが、彼らを罪に陥れたとされる共産党関係者、裁判官には一切のお咎めはない。勿論のことだが・・・。

 この年、毛沢東は知識人や民主派勢力の一掃を狙った反右派運動を開始し、翌年は大量の餓死者を生むに至る大躍進を発動させ、10年後の66年には驚天動地の文化大革命がはじまる。この事件は、長い狂瀾怒涛の時代の幕開けを告げる悲喜劇だったようだ。

 著者は毛沢東の介入を仄めかすが、中国人の民族体質にも問題大有りです・・・ヨ。《QED》