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樋泉克夫教授コラム
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【知道中国 800回】 一ニ・九・初五
――確かに毛沢東は悪いが、劉少奇はもっと悪い
『封殺不了的歴史』(劉國凱主編 劉山青 1996年) 表紙を開いた最初の頁に、「文化大革命と数々の“運動”において肉親を失くし、健康を損ね、尊厳をズタズタにされ、青春を奪われ、理想を粉々にされた凡ての中国の同胞に、謹んで本書を捧げる」と記されている。この本を貫く哀しき調べでもある。
この本には文革を批判する3本の長編論文が収められているが、文革初期に登場した奇跡のように自由な言語空間が権力闘争の暴風の過程で扼殺されてしまったことを惜しみつつ、血で血を洗う権力闘争が再現なく続いた原因を極めようとする。なかでも、劉少奇を徹底批判した王湘の「文化大革命的経験和教訓」は注目だ。
――発端は59年に開かれた盧山会議である。58年に毛沢東がブチ挙げた無謀極まりない大躍進政策は、人民に多大の犠牲を強いた。そこで国防部長の彭徳懐が農村での実地調査に基づいて問題点を具申するが、毛沢東は激怒して彭徳懐を「党の乗っ取りを企む軍事クラブの首領だ」と悪罵のかぎり。かくて彭は失脚となる。職を賭してまで人民を救おうとした彼を、革命闘争の死地を共に潜り抜けてきた同志の誰もが助けようとはしなかった。以後、「中共官僚の凡ては自らの出世の糸口を専ら党内権力闘争の帰趨を置き、彼らが統治下の民衆の苦しみや叫びなど全く考慮しなくなった」。その最たる例こそ劉少奇であり、大躍進を機に国家主席に“大躍進”しているではないか、と糾弾する。
96年に文革が始まるや、「劉少奇は毛の文革に歯止めをかけるためではなく、これを好機と捉え、毛の主唱する“走資派”に対する戦いの矛先を中国の民衆に向けさせようとした」。「文革開始当時、多くの学生は共産党に教育された信念にしたがって壁新聞を書き、大学指導部に疑問を呈した」。ところが、自分の子供や属僚に向かって学生の徹底粉砕を命じた。若者は憲法の言論自由の規定に従って行動したにもかかわらず、劉少奇が頂点に立っていた当時の共産党は、まるで学生を虫ケラのように看做し、「扼殺を命じた」。
「後に中共党官僚は劉少奇に広範な同情を寄せるようになったが、彼こそ紛れもない第一級の人殺しだ。これこそ今日に至るまで、文革研究において忘れられ、或は歪曲されている重要な点だ」。この点を欠落させた文革研究は不完全極まりなく、民衆が党の暴政に反対し民主を勝ち取ろうとした事実を凝視してこそ、正しい文革研究ということになる。
毛沢東対劉少奇の権力争いを発端とする文革だが、「劉少奇は自らの党内基盤を高めに見積もる一方、毛沢東の政治能力を軽んじていた。だから毛沢東との決戦に臨もうとした時、彼は直ちに自らの基盤の弱さを知らされ、1回もマトモな勝負もできないまま」に敗北する。
文革を論ずる際、誰もが「必ず劉少奇に言及し、彼の無惨な死を以って造反派の残酷無情さを証明しようとする。だが、劉少奇とその一派の死は中共の専制政治の本質を明示するだけだ。共産党の限りない恐怖や権力に立ち向かった民衆と劉少奇は全く関係ない」。
文革開始当時の66年6月から10月まで、共産党の大権は劉少奇が握っていた。「憲法に従って共産党権力の横暴さを告発しようとした民衆に向かって、彼は毛沢東に較べ百倍以上の弾圧を加えてきた。彼こそ文革において広範な民衆に最初に斬殺の刃を振り下ろしたのだ」。事実を明らかにしない限り、「彼の名を“受難者”の墓碑に刻むわけにはいかない」。
――どうやら民衆にとって、劉少奇は毛沢東以上に迷惑千万な指導者だったようだ。この本は文革の内実を抉り出し、共産党指導者の冷酷非情な本質を厳しく告発する。《QED》
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