樋泉克夫教授コラム

 【知道中国 802回】             一ニ・九・仲一

 ――事実は小説よりも「奇」が過ぎる

 『大江大海 一九四九』(龍應台 天下雑誌 2012年)
 
 この本は日本が敗戦した45年から、国共内戦に敗れた蒋介石が“中華民国”をそっくりそのまま持ち込んだ49年末頃までの台湾を綴っている。だが教科書的に概説しているわけでも、蒋介石政権の横暴振りを悲憤慷慨し告発しているわけでもない。激動の数年間、名もなき草民(もちろん当時は)がどのように生き、そして死んでいったのかを、彼らの言葉で語らせている。

 日本が敗戦したことで進駐してきた「支那兵」を目にして台湾の人々は驚き、呆れ、失望し、そして軽蔑した。威風堂々と隊伍を整える敗残の日本兵に対し、勝者であるはずの彼らは「まるで苦力のようだ。天秤棒の両側に雨傘、布団、鍋、コップをぶら下げ」ている。誰もが銃を持たず、なかには靴も草履も履いていない者すらいた。これが憧れていた“祖国”の兵士なのか。まさに「乞食兵団」ではないか。

 「日本の敗戦により学生の身分を取り戻し、東京から台湾に帰って台湾大学で学業を続けようと決心した」台湾青年の岩里政男は兵士を軽蔑する仲間に対し、「我らが国家のため、こんな劣悪な装備でも、国軍は日本人に打ち勝つことが出来た。考えられないことだ。彼らに感服の眼差しを送るべきだろう」と語りかけた。李登輝、23歳の春だった。

 地域住民から慕われていたことで、ある医師は「国軍歓迎委員会」の代表として埠頭に出かけていったが、帰宅するや息子に「日本語で『穴があったら、入りたかった』と」。「支那兵」は台湾人を被征服民と看做し、暴虐の限りを尽くす。47年2月、「二・二八事件」が勃発し全島は大混乱に陥る。高雄参議会議長を務めていた彼は、秩序維持を求め国軍司令部に向かうが、抵抗する間もなく雁字搦めに縛りあげられた。蒋介石と台湾省長の陳儀を罵った仲間は直ちに軍法会議に付され銃殺。帰宅した医師は、「自らの体内を漢族の血が流れていることすらも恥辱だとまでいった。孫や子は外国人と結婚し、子々孫々までも自分は漢族だなどと言ってはならない、とまで思うようになった」。この医師の息子が、台湾独立運動に一生を捧げた彭明敏である。

 だが「乞食兵団」の側にも、それなりの事情があった。最初に台湾に乗り込んだ「七十軍」の場合、日本軍とは37年の上海以来、武漢、南昌、長沙と激戦の連続。兵の消耗が激しいがゆえに、農夫であれ手当たり次第に徴用し、初歩的な訓練を施しただけで前線に投入する。弾丸や食糧を運ぶ牛馬の代用品として酷使され戦線で斃れた者も少なくない。

 「志有る若者よ、中国に行こう。国家建設がキミらを求めている。月給は二千元、そのうえ国語(中国語)も技術も学べる」との「流暢な日本語放送」につられ大陸に渡った若者は、国共内戦に投入される。満洲の長春で共産党軍の残虐な包囲兵糧攻め作戦を奇跡的に生き抜いた者、捕虜となり共産軍に編入され国民党軍と戦い大陸を転戦した後に結婚し50年後に帰還した者、反共救国ゲリラとして大陸に送り込まれ人知れず戦野に斃れた者、あるいは南太平洋の島々で日本軍として戦った者など・・・「台籍国軍」と「台籍日兵」・・・この本からは、夥しい数の台湾の無名鬼の呟きが聞こえてくる。

 個人の力では抗し難い歴史の奔流を前にして、台湾人はどのように生き、生きようとし、斃れて行ったのか。読み終わって浮かんできたのは、やはり悲哀の2文字だった。《QED》