樋泉克夫教授コラム

 【知道中国 803回】             一ニ・九・仲三

 ――歩いても歩いても・・・人民が“解放”されることはなかった

 『守望 金三角。』(石磊 旗林文化出版社 2012年)
 
 いまから20年ほど昔、バンコク経由で初めて昆明に行った時のことを思い出す。

 眼下に見えるのは山、また山。ラテライトの赤茶けた土肌の熱帯疎林の上を飛び、やがて鬱蒼としたジャングルの上空に差しかかる。目を凝らすと、山肌を縫うように獣道のような小径が延々と四通八達して続く。小径に沿ってポツンポツンと小さな集落がある。周辺で小さな鏡のように光っていたのは溜池だろうか。
 命の水だろう。こんな所に、誰がどのような生活をしているのか。どういう方法で外界と接触しているのか――こんなことを考えていると、アッという間に昆明空港に到着した。バンコクから昆明までは、空を飛んでゆけば“指呼の間”。だが歩くとなると、いったい何日を要するのだろうか。

 バンコク昆明便の眼下に広がっていた大地を戦場に、著者は緬共(ビルマ共産党)のゲリラ戦士としてビルマ中央政府軍や他の少数民族軍との戦いに明け暮れていた。

 1947年に昆明に生まれた著者の家庭は、共産党政権下では許されざる環境にあった。国共内戦の際、潰走に次ぐ潰走の末にビルマ・タイ・ラオスの3ヶ国の国境が重なる辺りの金三角(ゴールデン・トライアングル)に落ち延びた国民党軍を追った彼の父親は、やがて蒋介石政権に従って台湾に移る。親族の多くもまた台湾へ。であればこそ、共産党政権下でマトモに生きていけるわけはなかったのだが、少数民族懐柔策により昆明の名門中学に進むという幸運に恵まれる。そこで文革が勃発したことから、知識青年の一員としてビルマ国境に近い辺境少数民族居住区の徳宏州(今年のゴールデンウイークに訪ねた地だ)に下放される。

 「若者よ、辺境農民の生活を体験し革命精神を鍛造せよ」「犠牲を恐れず、学習に励め」という毛沢東の“有難い教え”に従った。1969年2月のことである。

 当時、徳宏州に下放された若者の間で「跑緬甸(ビルマに行こう)」の動きが熱病のように流行っていた。緬共に加わり毛沢東思想でビルマ全域を“解放”しようというのだ。著者の場合、家庭条件からして暗澹たる将来が待ち構えていることは判りきったこと。それならばと著者は、将来を隣邦の“解放”に賭けてみた。イチかバチかの「跑緬甸」である。

 この本の記述の多くは、緬共人民軍東北軍区第五旅団四〇四七部隊の兵士として戦った民族解放戦争に割かれている。さぞや激烈な戦い振りが描かれていると思いつつ読み進むが、手に汗握るような戦闘シーンは一向に現れてはこない。ただただ索敵行であり、食糧調達であり、逃避行である。猛禽の棲む密林を抜け、熱帯疎林を踏破し、鬱蒼としたジャングルに身を潜め、ひたすら歩く。敵との遭遇戦は一瞬で終わり、また歩く。ビルマ政府軍の強力な銃火を避けるため、国境を越えて安全地帯の中国領に。敵が後退すると、再び国境を越える。民族解放のためのゲリラ戦争とは、まるで歩くことに尽きるかのようだ。

 緬共は組織内部の問題もさることながら、経済成長路線に転じた北京が支援を打ち切ったことで89年に崩壊する。やはり北京なくして緬共もありえなかった。著者は緬共残存勢力である少数民族のワ族が組織したワ州連合軍に合流するのだが、中国物資輸送の幹線ルートを押さえたことで、中国経済の影響力が南下・拡大するほどに、同軍もまた銃器を捨て合法・非合法のビジネスに励む。いまや「紅い財閥」と揶揄する声もあるほどだ。

 著者は異邦での40年を「一瞬に過ぎた」と回顧し、「生きては中国人、死して中華魂たれ。今は亡き友を思えば・・・中華魂となって東(ふるさと)に帰(もど)れ」と呟く。行間から、もう歩かなくてもよくなった日々への安堵感が伝わってきて哀れを誘う。《QED》