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樋泉克夫教授コラム
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【知道中国 809回】 一ニ・九・念八
――諸悪の根源はルーズベルトだけ・・・ではなかった
『失敗したアメリカの中国政策』(B・W・タックマン 朝日新聞社 1996年)
大東亜戦争に際し、日本は腹背に2人のアメリカ人将軍を迎え撃った。1人は太平洋の島々を飛び石伝いにやってきたマッカーサー。残る1人はグータラ極まりない弱兵である中国兵を90個師団の強兵に鍛え上げることを企図し、中国西南辺境で執念を滾らせていたスティルウエルである。2人はミズーリ号甲板で降伏文書にサインする重光の手元を、共に傲然と見下ろす。してやったり、と思っていたはずだ。数年後、1人は前進を阻まれた老兵として朝鮮の戦場を去らざるをえなかった。残る1人はオブザーバーとしてビキニ環礁での原爆実験に参加したことが禍してか、ほどなく胃癌を患って世を去っている。
この本は、アメリカ軍中最高・最強の中国通とも伝えられるスティルウエルの人生を縦糸に、彼に関わった米中両国の政治・軍事指導者の動きを横糸に、アメリカの中国政策失敗の跡を検証している。大情況に立って鋭敏で詳細な分析を加える。無味乾燥な記述が廃され、行間には生き生きとした人間模様が浮かぶ。上下2段組みで600頁余の大部ながら一気に読了。悔しいことだが、先ずは素直にアメリカの知性と知的執念とに脱帽してこう。
スティルウエルが語学将校として中国に最初の一歩を踏み入れたのは、清朝崩壊への最後の一撃となった辛亥革命が起こった1911年。以来、彼の軍務の大半は中国だった。すぐれた中国語能力と強靭な肉体と旺盛な好奇心とを武器に、彼は中国の政治・軍事指導者から文化人、さらには最底辺の庶民までとも積極的に交わる。依怙地で傲岸不遜気味な個性を発揮しながらも、中国各地を歩き、中国人と中国社会のなんたるかを体感していった。
やがて日米関係が緊張の度を加える。ルーズベルト大統領は日本軍を中国大陸に縛り付けておくため、なんとしても蒋介石を味方にしておきたかった。如何なる手段を取ろうとも、日中が手を結ぶという悪夢だけは避けねばならなかった。そんな政策を支えたのは、19世紀半ば以降のアメリカの対中政策の一翼を担った宣教師による布教活動がもたらした、中国人に対するアメリカ人の奇妙な親近感である。「アメリカ人はほかの国には感じない責任を中国に感ずるようになっていた」。アメリカに従順な中国人をアメリカ化させなければならないという“妄想”に駆られていた。おそらく現在も、そして将来も。メディアもまた「(中国の、蒋介石政権の)良い面だけをみて、欠点や失敗にはいっさい触れなかった」。
そこが、蒋介石と宋美齢夫人を戴く勢力にとっては最大の狙い目だった。当時(あるいは現在も、そして将来も)、アメリカは「中国が自分の目的のために、自分を使うものをうまく利用する能力を見くびっていたのである」。蒋介石らの最大の目的は、自らの生き残り。「共産党を破壊し、外国の助けを持って日本をやっつけるため」、アメリカから莫大な援助を引き出す。結果として蒋介石らは太りに太り、大陸は赤化してしまった。大失敗である。
蒋介石軍支援のためにワシントンから送り込まれたスティルウエルは、蒋介石を陰で「ピーナッツ」と罵る。そんなスティルウエルはであればこそ、2人のソリが合うはずもない。蒋介石の妨害を受けながらも、スティルウエルは中国兵を督戦しつつ、ビルマから北上する日本軍を迎え撃つ。緒戦は散々な敗北に終わり命からがらインド東部に逃れるが、やがて態勢を立て直し、北部のフーコン谷地での激戦を経て、日本軍を潰走させている。
死を前にしたスティルウエルは「きみわからんのかね、中国人が重んじるのは力だけだということが」と呟く。日米中の複雑な結びつきは、昔もいまも、おそらく将来も、正三角形がどうのこうのなどという寝言で解けるほど生易しいものではないはずだ。《QED》
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