樋泉克夫教授コラム

【知道中国 811回】             一ニ・十・初三

 ――おいおい、公衆の面前で、いつまでも腹を出しているなよ

 廈門の埠頭からフェリーで数分。ピアノの島として知られる鼓浪嶼(コロンス島)を歩いてみた。現在でも、人口当たりのピアノ保有数は中国第一との触れ込みだ。

 かつて極貧と混乱の故郷を離れ、廈門の港から東南アジア各地に飛び出し、艱難辛苦の末に莫大な財産を築いた華僑成功者にとって「衣錦還郷(故郷に錦を飾る)」の島である。彼らは富の象徴として競って豪華別荘を建てた。豪華な調度。それがピアノだった。

 1840年のアヘン戦争で敗れた清国は英国と南京条約を結び、上海・寧波・福州・広州などと共に廈門の港もまた開放され、同時に香港島が割譲されている。以後、英国に続けとばかりに、列強諸国は清国に圧力を加える。清国からのアガリを英国に独占させてなるものか、である。かくて鼓浪嶼には各国の領事館が並ぶが、中国(清国)の側からすれば、対外開放を強いられて丸裸で蚕食されるがまま。「屈辱の近代」が幕を開ける。この時、列強に対する復讐心を持ち富強を目指す。いま、その富強が達成された。尊大になるはずだ。

 かつての金持ち華僑の豪邸と元外国領事館が立ち並んだ鼓浪嶼は「汚辱塗れの近代」の象徴でもあるが、いまやエキゾチックな雰囲気に満ち溢れた観光地に変貌していた。

 70年代前半の香港留学当時、隣の研究室の住人は廈門出身を自称していた。時折、紅衛兵として暴れ回っていた頃の話を聞かせてくれたが、武勇伝の中に鼓浪嶼が登場したものだ。喧騒・暴乱・殺戮・狂気に満ちた文革当時ですらエキゾチックな佇まいは守られ、門を堅く閉じた豪邸の奥の方からピアノの音が漏れていたという。

 彼は台湾経由で香港に落ち着いたと語っていたが、国境監視兵の目を逃れるように暗夜の海に小船を漕ぎ出し、廈門の埠頭から伸ばせば手の届きそうに近い台湾側の小金門島を目指した。台湾側艦船に収容され、これで祖国ともお別れかと振り向く彼の目に映じたのが微かに光る鼓浪嶼の灯りだったと、繰り返し話してくれたことを思い出す。

 文革に嫌気がさして国外脱出の機会を狙っていた彼にとって、香港は一時の安息の場でしかなかった。学費と生活費をどうやって工面していたのか知らないが、食費は極端に切り詰めて1日食パン1斤と水だけ。栄養バランスが取れないじゃないかといっても、中国ではこんな旨いものを食ったことがないと満足げに屈託なく頬張っていた。常日頃からアメリカに渡りたいと口にしていた通り、どう伝手を頼ったかは知らないが、アメリカ政府の奨学金を手にして香港から旅立って行った。シアトルに落ち着いて研究を続けているとの便りが届いたが、そのうちに音信は絶えた。今頃、果たしてなにをしているのか。 

 毛沢東と共産党に対し強烈な批判を繰り返したが、中国ビジネスで儲けた泡銭で鼓浪嶼のどこか見晴らしのいい場所で旧い別荘を買い込んで、優雅な生活を楽しんでいるのかもしれない。そうならそうで、逢ってみたいものだ。

 ・・・そんな思いに耽りながら旧い石畳の道を歩いていると、前方から観光客の大群がやってきた。その五月蝿いこと五月蝿いこと。ご愛嬌といえば、男がシャツを捲り上げ腹を突き出して歩いていることだ。都市でも農村でも、とにかく中国人の男はアッケラカンと腹をだす。恋人と手を組んで歩く若者までが、腹を出しているではないか。目の前に掲げられた「中国公民国内旅游文明行為公約」との大きな看板には、「他人に対し礼儀を弁えよ。公共の場所で胸や腹を露わにするべからず」と注意書きがされているのに、である。そこで「非文明行為」ではないかと尋ねると、すかさず涼しいから。気持ちがいいから、との返事が返ってきた。お前もやってみろと勧められたが、鄭重にお断りした。《QED》