樋泉克夫教授コラム

【知道中国 817回】             一ニ・十・仲七

 ――なにがなんでも世界一

 廈門市街地を抜けると前方に海滄大橋が現れる。左右2本の支柱で吊り下げる構造で長さ6kmとか。廈門市街地と郊外の海滄地区を繋いでいる。大橋の下は海だ。

 「長さ6kmで世界一だ」と、運転手の自慢がはじまった。そこで「行ったことはないが、アメリカにはゴールデン・ゲート・ブリッジ(金門大橋)という大きな橋があり、日本にだって鳴門大橋がある」と応えると、運転手は「左右2本の支柱で吊っている吊り橋だ。壮観だろう」。そこで再び、「そうはいうが、バンコクのチャオピア川に架かっているラマ9世橋も壮観だ。夜景なんぞは最高だ」。すると「だが、バンコクの橋は川だろう。こっちは水道だ。海の上だ」と、運転手は負けてはいない。「海の上というなら香港の赤鱲角空港から対岸の青山道に向かって架かっている橋もデカイな」。そこで運転手は路線変更したのか、「じゃあ、これは中国一かな」とトーンダウン。ここまできたらトコトン付き合うしかないと思い、「香港は中国じゃないのかい」と追い討ちを。最後の一言は余計だったようだ。運転手は沈黙。暫し気まずい空気が車の中を流れた。

 やがて車は海滄地区へ。

 台湾プラスチック集団創業者の故王永慶が海滄地区に着目したのは、天安門事件前後のこと。台湾での将来性に見切りをつけた彼は、新規事業として計画した70億ドル規模のナフサプラントの建設予定地として海滄地区を選定した。だが、これを当時の台湾の李登輝政権は「利敵行為」と看做した。一方、天安門事件の後遺症に悩み、党の命運を賭けた改革・開放政策が失敗しかねない苦境に立たされていた北京にとっては願ってもない贈り物だった。

 欧米の経済制裁のゆえに“雪の寒さ”に苦しんでいた鄧小平以下にとっては、願ってもなく真っ赤に温かい“炭”だった。これを「雪中送炭」と表現する。当時、王の申し出に国家主席だった楊尚昆は、「10人の王永慶がくれば台湾現有の外貨700億ドルは底を尽く。無力化は必至だ。ならば両岸統一に武力は不要」と小躍りして喜んだとか。

 政経分離ではなく政経一致の問題だけに、王永慶と台湾当局、それに北京の3者の間で何年もの間、虚々実々の駆け引きが繰り返されたが、最終的には王永慶の計画に沿った形で海滄地区への進出が果たされ、石化プラント以外にも多くの台湾企業が展開している。

 海滄地区に入り最初の交差点を曲がろうとすると、行く手を阻むように真正面に巨大な案内看板が立ち、その中央上部の一際広い場所を占めて「長庚医院」の文字が見えた。長庚とは王永慶の父親の名前だ。じつは王永慶は持病の治療のためにアメリカから心臓専門の張昭雄医師を招聘したのだが、そこで病院チェーンという新しいビジネスを思いつく。父親の名前を冠した長庚医院と長庚医学院を設立し、張を双方の院長に据えた。

 じつは陳水扁が初当選した00年の総統選挙の際、当時の国民党主席・李登輝とソリが合わず親民党を結党して選挙に臨んだ宋楚瑜の下で副総統候補を務めたのが張昭雄医師である。この時の王永慶の立ち位置は、国民党候補の連戦の選挙総指導部委員で民進党候補の陳水扁の主著である『台湾之子』の序文執筆者。加えるに自らの主治医を親民党副総統候補に。まあ、どっちに転んでも王永慶に損はない。こういうのを政経完全合致というのだろうか。とてもじゃないが昨今の日本の企業家には出来そうに、いや考え及ばない芸当だ。 

 ところで長庚医院だが、王永慶の狙いに従って中国でも全国展開中。数年前に湖南省の省都である長沙でも長庚医院の巨大な建物を目にして吃驚したことを思い出した。《QED》