樋泉克夫教授コラム

【知道中国 819回】            一ニ・十・念五

 ――「好戯還在後台」・・・面白い芝居は楽屋で演じられるようです
    
 人海戦術とはいうものの、さすがに毛沢東時代とは様相を異にしている。「双節暇日」だけに工事現場に人影は見えない。それでも、道路脇には屋台がポツンと。観光地を目指す多くの車を当てにしたのだろうか。バアさんが「卵白蛋白補虚」と横断幕を掲げて卵を売っていた。濛々たる砂埃を浴びた卵に看板に掲げるほどの滋養強壮の効能があるとは、とても思えない。とはいえ商売、ショーバイである。

 鄧小平は「貧乏は社会主義ではない」と大見得を切ったが、おそらく路傍のバアさんは鄧小平のブチ上げた社会主義の実現を目指して懸命に頑張っているのだろう。土埃をものともせずに・・・冗談抜きに頭が下がります。だが改革・開放当初ならともかく、金持ちと貧乏人の間の格差が天文学的に開いてしまった現在、彼女が貧乏から抜け出ることは金輪際ありえないだろう。

 目的地の華安に向かってダラダラ坂の道を1時間半ほど進むと、前方の山肌に巨大な看板が見えた。お馴染みの、作り笑い然とした顔で右手を振る胡錦濤の大きな全身像が描かれ、看板の上部には「牢記胡錦濤総書記観察福建土楼的嘱托 把福建(華安)土楼守護好伝承好」と大きな文字で記されている。「胡錦濤総書記の福建(華安)土楼視察による依頼を銘記せよ。確実に保護し、的確に受け伝えよ」ということだが、この看板は今回の廈門旅行で唯一目にした胡錦濤の姿だった。

 それにしても02年に権力を掌握してから10年、公の場での胡錦濤の笑顔を見た記憶がない。終始一貫して仏頂面だったように思える。和諧(和解・融和)社会の建設を施政の大方針に掲げていたはずだが、とどのつまり彼らの宿痾ともいえる権力闘争の狭間で心和む日々がなかったということだろうか。彼が江沢民の後継として確実視されはじめた00年、01年当時、日本のメディアや著名な中国研究者から「胡は江と違って開明派だ。革命政党の共産党を国民政党化し、中国の民主化は進む」などと“世迷言”が盛んに聞かれた。だが彼の10年の治世を振り返ってみれば、革命政党は国民政党をスッ飛ばして一瀉千里に超金権政党へ、民主化は夢のまた夢と潰え、超覇権国家に向けて驀進中ではないか。今にして思えば、的外れもいいところの“予測”だったわけだ。

 そこで思うのは、次期トップの習近平である。文革中に農村に追い遣られたことを指し、太子党だが苦労人。庶民の心が判っているなどと評価する声も聞かれるが、胡錦濤に対する“見立て”が狂っていた経験則に照らして考えれば、やはり苦労人・庶民派という見方は希望的観測に過ぎるということ。どう考えても「経済的台頭」に加え「軍事的台頭」という路線を突き進むように思えるのだが・・・。

 ほどなく胡錦濤は北京の権力の表舞台から去る。前任者の江沢民と後継者の習近平の間に挟まって、果たしてどのように振る舞うのか。やはり「好戯還在後台」である。

 巨大な看板の前で道は左右に分かれている。改めて地図を見ると、この三叉路を左に折れて山間の道を西に進むと、人民解放軍の生みの親とされる朱徳が1929年に革命の兵を挙げて襲撃した上杭に至るはずだ。

 その時、兵士らは「労働者や農民はひどい貧乏だ。地主が遊んで、わしらはこき使われる、ああ、辛くてたまらんわい!・・・上杭を攻める日が決まった。中秋節に進軍するぞ。人食い地主どもは死ぬんだ! 人民は生きるんだ!」と、「上杭の歌」を口ずさんだとか(『偉大なる道 朱徳とその生涯』岩波文庫)。その時から80有余年。時はまさしく中秋節。現在の上杭の姿を知りたくなった次第である。《QED》