樋泉克夫教授コラム

【知道中国 824回】              一ニ・十一・念九

 ――不条理を生きた「いもっ子」の人生

 『青島東路三號』(顔世鴻 啓動文化 2012年)

 さつま芋の形に似ているところから、かつて台湾の人々は自らを「いもっ子」と呼んだそうだ。いもっ子の著者は自らが歩まざるを得なかった不条理な人生を淡々と語りながら、彼と共に歩み政治の荒波に呑み込まれていった仲間たちに思いを馳せる。

 1945年3月、著者は台北帝大医学部に入学したが勉学どころではなかった。半年ならずして日本は敗れ去った。台湾防衛の任務を解かれ動員先から大学に戻った著者ら学生を前に、当時の安藤総長は訴える。(以下に本書に中国語で示された挨拶の一部を訳してみた。安藤は日本語で語りかけたはずだから、原文を読んでみたいものだ)。

「一人の日本人として、こういうべきではないかもしれませんが、一人の知識人としては、すでに開戦時には今日の事態は予測できました。・・・犠牲になった学友を除き、君らは無事に帰還してくれました。ご苦労様というほかありません。我らが国家は敗れ、一切は灰燼に帰してしまいました。今後の国家の建設と復興は、凡て君らの二本の腕と叡智にかかっているのです。記憶してくれたまえ。一切を失った者は一切を得ることができる、ということを。君たちが心の中まで荒ませてしまったら、我らの国家は本当に衰亡の道を歩んでしまうのです。・・・いま申し上げたことを、どうか、どうか心に深く刻み込んでくれたまえ。『一切を失った者は一切を得ることができる』。有難う。ご苦労様でした」

 日本は敗れ、形の上からだけでも中華民国は勝利した。安藤の「我らが国家」は、もはや著者にとっての「我らが国家」ではなかった。やがて彼は汽車で帰郷する。車窓から目にした風景は、「大半の民家の屋根には(中華民国国旗の)青天白日旗が挿されていた」。しして「(故郷の)集落では深夜までドンチャン騒ぎ。まるで大祭りのようだった」。誰もが中華民国を“祖国”と思い、祖国の内懐に抱かれる喜びに沸きあがっていたのだ。

 だが台湾海峡を渡ってやってきた“祖国”の「役人と兵は台湾を自らの殖民地と見下す。最高責任者の陳儀長官までもが民権すら知らず、それまでの日本時代の教育を殖民地教育・奴民教育と呼ぶほどだった。これこそが、台湾人の怨みの根源だった」

 47年に台北大学医学部と名前を変えた母校に戻った著者らは、国民党政権の独裁、台湾人無視、底なしの腐敗に怒りを滾らせ、学生を中心に反国民党勢力の糾合に動く。だが、国民党政権の無慈悲極まりない「白色テロ」に犠牲者の山を築くしかなかった。著者もまた逮捕され、台北市内の青島東路三号に置かれた国民党軍法監視所に放り込まれる。「あの荒みきった時代、台湾の知識人は次々に青島東路三号にブチ込まれた。幸運な者に待っているのは緑島。不幸な者の向かう先は生臭く凄惨で、血塗られた馬場町だった」

 「インターナショナル」を唱って最後の抵抗を試みる。「馬場町一帯は昼でも人通りは少なく、野菜市場まではやや距離がある。朝市を歩く人々の多くは、銃声を聞いたはずだ。多い時には1日に18人が2度も。総計で36人が銃殺された」こともあったそうだ。一方、著者は台湾東方海上に浮かぶ緑島や小琉球へ。流刑だ。政治犯として絶海の孤島で一生を終えろ、というわけだ。だが64年、著者は幸運にも釈放され再び医学の道に進む。

 彼らが明日を託そうとした共産党は“隆盛”を極め、打倒を目指した国民党は政権を保持したまま・・・非命に斃れた仲間を偲び、著者は「生きていたら彼らは台湾、中国の俊英であり国家を支えてくれたはずだ。40年が過ぎ去った」と呟く・・・哀切・苦衷。《QED》