樋泉克夫教授コラム

【知道中国 825回】             一ニ・十一・仲一

 ――「誠に今、日本を救うのは明善寮のみだ」

 『ある台湾知識人の悲劇』(楊威理 岩波書店 1993年)

 仙台の第二高等学校明善寮に暮らし、敗戦1年前の昭和19年7月19日の日記に《今にして、二高生を除いて日本をこの危局から救うものはない。明日行われる生徒大会こそ、実に日本精神史に特記すべき日となろう。本当の日本は明日を期して生まれ行くのだ》と綴った葉山達雄は、1923(大正12)年の台北生まれ。昭和20年4月に東京帝国大学医学部に進学したが、僅か4ヵ月後には敗戦を迎える。かくして葉盛吉に還っていった。

 45年10月19日の日記に《八年の苦しい戦いをへて、祖国は今栄えある勝利に達した。我々はこの偉大なる努力の結晶が次に時代の飛躍力たるを信じて疑わない》と記す一方で、それから2ヵ月が過ぎた12月16日には《我らは日本の帝国主義を打倒した。しかし、我らは日本の滅亡を断じて望まない》とも呟いている。

 彼は勇躍として台湾に戻った。だが、「ポルトガル人が麗しき島(Ilha Formosa)と呼んだ私たちの故郷が、蔣介石の国民党政権によってひどく荒らされていたとは、葉も私も、その他の多数の在日台湾人も、故郷に着く前は、全く知らなかった」。ここにある「私」が葉の友人で、非命に斃れざるを得なかった葉の短くも熱く生きた人生を愛惜の念を込めて綴る楊威理、つまりこの本の著者である。副題は「中国と日本のはざまで 葉盛吉伝」楊は「台湾人は中国への復帰を心から喜んだ。あたかも虐待された里子が実家に戻ったが如くに。一九四五年十月、台湾人は大陸から来た中国政府の官吏とその軍隊を迎えた。その歓呼の声は空に響きわたるほどであった」。だが「同じ中国人でありながら、大陸から来た、いわゆる『外省人』は、あたかも征服者のごとく振る舞い、『本省人』の台湾人を虫けらのように取り扱った」と回想するが、これが当時の台湾人一般の感想だったろう。

 1946年4月8日、「五年ぶりで懐かしの故郷に帰ってきた。基隆港に着いた・・・第一印象」を、葉は日記に《埠頭にいる国軍〔国民党の兵隊〕は実力なし。幻滅的悲哀を感ず》と。48年1月10日には《社会は退廃とサボタージュ。貧汚と淫乱。Alkoholismus〔アル中〕に豚》。彼は台湾大学医学部に編入するが、大学は「あたかも征服者のごとく振る舞」う外省人によって制圧されている。「虫けらの」本省人を糾合し国民党による暴政に反対の声を挙げ、葉は国共内戦に勝利しつつあった共産党に台湾の将来を託そうとした。だが、「大陸に住んだことのない台湾人は、中国共産党の実態を全く知っていなかったのである」。

 「中国大陸で血なまぐさい闘争を続けてきた」が、「一九四九年十二月に大陸から追い出された国民党は、この闘争の舞台を台湾に移した。葉はこの血の闘争で犠牲者」となる。「初冬の台北は、朝からこぬか雨が降っていた。薄暗い明け方に、葉を含めての十一名が呼び出され」て処刑場へ。1950年11月29日のことである。

 「処刑場の馬場町は、台北の西南部を流れる新店渓の河端にあった。ここには相当に大きい砂浜が広がっている。遥かに、もとの栄市場がみられるが、現場は昼間でも人影のない、薄気味悪いところである」。「朝湿りの河原に鮮血がほとばしる。その時、東の空はまだ薄暗く、銃声の後の静けさは、鬼神をもおののかす」。

 この本は父親の顔も知らずに育った一子・葉光毅、台湾大学医学部の2年後輩で『青島東路三號』を著した顔世鴻(【知道中国 824回】)が秘蔵していた資料を基に楊威理が綴る。楊が共産中国で嘗めた惨苦は『豚と対話ができたころ』(【知道中国 198回】)に詳しい。
あの時代、台湾は何人の葉盛吉が生んだのか・・・浮かぶは哀恫台湾の四文字のみ。《QED》