樋泉克夫教授コラム

【知道中国 832回】              一ニ・十一・念七

 ――声低く語る日本への思念、懐旧、仰望・・・

 『日本への遺書』(陶晶孫 東方書店 1995年)

 1951年、著者は久々に東京に戻ってきた。その頃に書かれたエッセーの「近頃の日本」から、印象に残った部分を、思いつくままに抜き書きしてみる。

 「昔日本にあったものは今も皆ある。即ち昔呉服しかなかった三越呉服店、板橋行きの札をかけた御茶ノ水橋の鉄道馬車、浅草の仲見世、武蔵野の景色、隅田川の水練場。それがアプレゲールで暖簾がライオンになり、鉄道馬車がレトロバスになり、水練が海水浴になっても日本精神は少しも変わらない。山麓に煙突や送電線が一杯になっても富士山のテッペンが少しも変わらないように。/しかしそれは非常に気の毒なことだ。私からみると、どうも民族の性格と云うものは根性となって残るし、いらぬ外来の真似もまた早い。その時はプラスにならない。中国はひどい貧乏や奴隷化を経験したが、日本はそれを免れただけ立ち上がるに違った骨折りが必要だ」

「市街地になってしまった武蔵野でも、二、三本の欅の木が残っている。それは昔の雑木林なのだった、武蔵野の北の方では真黒い土がある、大根が並んで乾してある、すこし遠くいくと農家の屋根に干柿がつるしてある、こういう景色は平凡ながら、前に日本に住んだことのある人には懐かしい」
「国家、社会、人間、どうも隣国でありながら中日間は今まであまり具合がよかったとは云えない。ただ我々が日本の景物や日常生活に入るとき、いろいろの愉快さがある、それを私は特に明治文学で読んだが、どうも今度来て見るとあまりこの方面の随筆や描写が多くない、これもかつて我が国がだんだん外国の圧力のため余裕を失った時と同じではないかと疑ってみる」
同じ時期の執筆と思うが、「落第した秀才・日本」は綴る。

 「遠慮なくいえば、日本もドイツも、一度暴れたために、先生に落第させられた秀才である。汚い植民地人民の後ろに並べられてしまった。努力して再び進むのに『再び優越』しようと言って他の生徒をつきのけたり、軽べつしたら、また先生に叱られる。おまけに、先生は、始めから日本が再び有力国になることを許していやしない」

「ある人はいった。日本全国民は今一つの列車に乗ってある方向に進んでいる。有識者もそれに乗ったまま、そっちへいっては感心しないといっている、しかしその方向を変えるには車を止めなければならない、だが運転手は止めてくれない、止めるには車をこわさければならない、こわしちゃ人が死ぬ、だから多くは心配しながら乗ってると。これは半殖民地になった初期によくある間違いである」

 著者は「幼くして海を渡って日本に移り住み」(「父を憶う」)、日本生活を存分に味わい医学を学んで帰国。日本敗戦時には日本陸軍病院接収委員を務める。後に台北に移り台湾大学に赴任する。国民党の白色テロから逃れんとした学生を懸命に援助したようだが、やがて彼も日本に脱出せざるをえなくなった。「第二の故郷ともいうべき日本で、東京大学で中国文学を講ずる傍ら、創作を意欲的に始めたが、僅か二年で病に倒れた」(「父を憶う」)。

 「いつも病気とアベック」だったと自嘲する著者が遺した文章を集めた『日本への遺書』には、納得できない主張も散見される。だが、あれこれと考えさせられもする。騒がしい時期だからこそ読み返す。陶晶孫が呟くように綴るしんみりした日本語が嬉しい。《QED》