樋泉克夫教授コラム

【知道中国 839回】             一ニ・十二・念二

 ――革命的ゼニ儲け至上資本共産主義・・・勝利バンザイ

 『マオノミクス』(ロレッタ・ナポリオーニ 原書房 2012年) 

 「なぜ 中国経済が 自由主義を 凌駕できるのか」という副題を掲げ、「中国経済の凄さの本質は何か?」を問い続ける著者は、「この国の支配層は、海外による屈辱の時代に生まれ、植民地になり下がるというはずかしめを受けた後、中国がふたたびマルクス主義と毛沢東主義によって再起するさまをみつめ、さらには文化大革命を生き延びてきた。それが今度は市場経済の原則によって国をつくりかえようと」と近現代史を概観し、「毛沢東の死から数年後、鄧は長征や共産主義革命に象徴される階級闘争に終止符を打ち」、かくして「国民の幸福こそが、共産党と国民の間に結ばれた約束のよりどころとなった」とする。

 どうやら「中国経済の凄さの本質」は、「マルクス主義と毛沢東主義」から逸早く「今度は市場経済の原則によって国をつくりかえ」、「階級闘争に終止符を打ち」、「共産党と国民の間に結ばれた約束のよりどころ」に「国民の幸福」を据えた点にこそあるようだ。ここで「市場経済の原則」と「国民の幸福」の間に強権を持って介在する共産党という一党独裁政党に問題があるように思うが、著者は共産党の振舞いを全面的に肯定することによって、「市場経済の原則」と「国民の幸福」を“魔法”のように結び付けてしまう。

 たとえば「鄧にとって市場経済と社会主義のふたつの理論は相反するものではなかった。『社会主義経済をうながすものはなんであれ社会主義である』と考え、社会主義は市場経済を排除するものではない、ととらえていた」。だから「ベルリンの壁の崩壊とともにイデオロギーも瓦解してしまったにもかかわらず、鄧小平が掲げたこのモットーを得た中国共産党はこの危機を乗り越えることができた」。やはり「鄧は正しかった。経済理論は経済を導く道具にすぎず、マルクス主義のツールは自由市場を排除するものではなかった」ということになる。無原則という大原則。お~いマルクス、聞いてるか~ッ。

 かくして著者は、中国共産党は万事が正しいと強く主張する。その一端を挙げると、
■「共産主義」は・・・国民の利益を保証すべく経済に目を光らせる国家を意味する。
■現に中国での民主化の試みは、・・・ついには三四の省へと拡大して、最終的に中央政府に達することになる。
■将来的に中国の政治は「熟慮型民主主義」を中心に展開していき、市民社会が参加して実施される選挙がやがて中央政府の機能をおぎなうようになるだろう。
■鄧は正しかった。経済理論は経済を導く道具にすぎず、マルクス主義のツールは自由市場を排除するものではなかったのだ。
■パレードや式典は中国共産党主導でとり行なっていたわけではなく、全国民が心を合わせて参加していたのだ。
■共産主義国の政治家にとってなによりも重要なのは、人々の信頼にそむかないこと、そして国をまもることである。
■中国共産党は・・・単に金やインフラではなく、資本主義でありながら非西側国という、全面的なモデルをアフリカに提供したのである。

 共産党賛歌のオンパレードだ。ということは幹部による際限なき不正も、絶望的な社会格差も、底なし沼のような環境破壊も、著者には関係ないらしい。著者は「中国共産党は中国のことだけを、そして国が生き残ることだけを考えている」と説くが、そこ「中国経済の凄さの本質」があるということではなかろうか・・・得意傲然・失意悄然。《QED》