樋泉克夫教授コラム

【知道中国 847回】                     一三・一・仲二

 ――事実は小説より奇なり・・・偉大な中華民族の現実(1)

 『十四家 中国農民生存報告(2000―2010)』(陳慶港 鳳凰出版伝媒集団 2011年)

 我が強欲を満足させるためには不都合な農民をぶっ殺し、財産を巻き上げ、反対意見を圧殺し・・・まさに“共産党版正史”が描き出す「旧中国」の封建地主そのままに振る舞う末端農村幹部の悪行の数々を赤裸々に描き出した『中国農民調査』(2004年1月)を著したがゆえに、2ヵ月後の04年3月には発禁処分を受けてしまった陳慶港の作品だ。

 甘粛、雲南、山西、貴州の14家族が2000年から2010年までの10年間を如何に生き抜いたかを克明に綴る。「生存報告」とは、貧困の果てに窮死していった農民たちの心の叫びでもある。

 甘粛省岷県寺溝郷紙坊村六社の車応堂は、1999年冬、生活に窮し村を離れ1ヶ月ほど乞食生活を続ける。 32歳の年だ。翌年夏、母親(69歳)は孫娘(9歳)と一緒に家を離れる。1ヶ月ほどが過ぎると、孫は乞食生活で手にした50元を持って家に戻ってきた。その金で、一家の食糧のジャガイモを買うことができた。02年秋、乞食生活の末に母親は死ぬ。車応堂は死体を引き取りに故郷を遠く離れた銀川市に。やっと見つけた亡骸を化学肥料の黒い空き袋に納め包んで、紐で縛った。こうすれば中身が亡骸とは思われないだろうから。

 亡骸を背負ってバスに乗り込んでみたが、どうすればいいのか。仕方なく他の客の荷物と一緒に通路に横たえた。バス停に停まるごとに、乗降客でごったがえす車内。誰もが荷物を手に亡骸を踏みつけて行き来する。そうされるたびに、車応堂の心は「刀で切り刻まれるようだった。だが、ひたすら耐えるしかない。なにもいえやしない。と、降りようとする客が母親の顔の辺りを踏みつけた。車応堂の心の奥で、なにかが弾ける。ガバッと立ち上がり、その客を突き倒そうと。すると、その客が車応堂に大声で食ってかかってきた。『なにしゃがんだ。中身がお前のおっ母というわけでもねぇだろう・・・』」

 貴州省畢節市朱昌鎮朱昌村の翟益偉は1994年、海南島に出稼ぎに行く。30歳の年だ。03年、2人の娘を母親に預け、1人息子を連れて妻と浙江省黄羊鎮に出稼ぎに。04年6月、妻は炭鉱の落盤事故で行方不明になってしまう。遺体も見つからないままに、息子を背負って帰郷。06年6月、偶然発見された遺体を引き取りに妻の妹と現場の坑道へ。

 事故現場は密封され低温だったことから腐乱は余り進んでおらず、妻だと見分けがついた。結婚前に贈った紅い服を着て、髪は事故のあった鉱山の売店で買った綺麗な紐で結んだままだった。彼女は1mの紐を3つに分け、1本を自分に。残った2本は故郷で待つ2人の娘の土産にした・・・あの時が思い出され、翟益偉の涙は止まらない。肥料袋に包んだ遺体を段ボール箱に詰め背負おうとする。「義兄(にい)さん、何故そこまで」と義妹。「妻(やつ)は寂しがり屋だ。知り合いもいない場所に1人で置いておくわけにはいかないじゃないか。故郷に連れ帰るんだ」と翟益偉。「義兄さん、この天気じゃ遠い貴州の故郷まで・・・」。仕方なく荼毘に付す。なんとしても「入土為安(故郷の土に)」に還すんだ。

 翟益偉は再婚し、06年には新しい妻と一緒に深圳に出稼ぎに出た。09年4月、深圳で交通事故に遭い肋骨を折る。妻を残して故郷に戻るが、10年春には再び深圳へ。5月、事故の際に世話になった友人の誘いでミャンマーに出稼ぎに行くことになる。

 「中国農民生存報告」は、「今度もチャンスに違いがないが、運が向いてくるかどうか。誰にも判らない。数日が過ぎ、彼は遠くミャンマーに向かった」と結ばれている。《QED》


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