樋泉克夫教授コラム

【知道中国 849回】                     一三・一・仲五

 ―――これこそ荒唐無稽筆談だ・・・
            
 坂元一哉大阪大学教授の「日米同盟の目的再認識」と題する産経新聞(1月12日)一面掲載のコラム(「世界のかたち、日本のかたち」)は、やはりノー天気に過ぎる。

 坂元教授は、「安倍晋三首相は、早期に訪米して、オバマ大統領との首脳会談を行うことに意欲を示している。新政権が力を入れる日米同盟強化の第一弾と位置づけてのことだろう」と説き起こし、尖閣をめぐる日中関係に触れながら、南シナ海で「挑発を続ける中国への警戒心は小さくないはず」であり、それゆえに「日米両国は、中国の軍事的台頭と海洋進出に対する警戒と対抗という共通目的のために、同盟を強化する」とした後、「注意すべきは、中国への『警戒と対抗』は基本的に軍事的なものであり、中国の軍事的な『封じ込め』ではあっても、中国全体の『封じ込め』ではないことだろう。日本も米国も、後者には利益を見いだしてはいない」と続け、TPPなどテコにする経済的な中国取り込みが「米国の長期的な目的のように思われる」が、「それは日本の国益にも反しない」とし、「中国の軍事的『封じ込め』と経済的『取り込み』のために、日米両国がどう協力していくか。今後の日米同盟強化は、それが議論の焦点になるだろう」と結論づける。

 確かに対中のみならず外交における日本の急務は日米同盟の再構築であり、その面からすれば坂元教授の考えは間違ってはいない。だが、現実的にいって「中国への『警戒と対抗』は基本的に軍事的なもの」に限定できるのか。「中国の軍事的な『封じ込め』ではあっても、中国全体の『封じ込め』で」あってはならないと主張するが、両者を峻別できるのか。北京が噛み付いてきても、「軍事的な『封じ込め』」であっても決して「中国全体の『封じ込め』」を意図してはいませんとトボケルだけの外交力を備えていればいいのだが。

 いま「偉大な中華民族」への「大復興」を騒ぎ立てる彼らの“逆上せ上がった議論”をみると、世界第2位の経済力程度で雄叫びを止めるとは思えない。当然のように「趕美超美(アメリカに追いつき追い越す)」を見据えているはずだ。GDP比で計ると18世紀の乾隆帝治世の清朝は世界の30%余、宋代盛時には80%前後を占めていたと言い募り、であればこそ、そのレベルにまでに“失地回復”をしてこそ「偉大な中華民族の大復興」だという過度に自己中心的で横暴極まりない議論すら散見されるほどだから。

 ましてや、国際社会におけるゲームのルールをアメリカに代わって自分たちで決めようとまで口にするのだ。彼らが主導しようとするルールなど、とてもじゃないが受け入れられない。ならばこそ「中国全体の『封じ込め』」までを覚悟しておくべきだろう。

 ここでアメリカ政治に詳しい坂元教授に伺いたいのが自著の『キッシンジャー回想録 中国(上下)』(岩波書店 2012年3月)で「問題は結局のところ、米国と中国が現実的に互いに何を求め得るかという点に行き着く。中国を封じ込めるためにアジアを団結させるとか、イデオロギー聖戦のために民主国家によるブロックを形成するという、あからさまな米国の企ては成功しそうもない。その理由の一つは、中国が大半の周辺国にとって欠くことができない貿易相手国であるからだ」と説くキッシンジャーのワシントンにおける存在感である。限りなくゼロに近いというなら無視してもいいだろうが、逆に大有りというなら、やはり船出したばかりの安倍アジア外交に与える影響は決して小さくはないはずだ。

 19世紀半ば以来、日米関係は一面では中国と中国市場での利害をめぐる対立と抗争の歴史であったことに思いを致せば、日米同盟をテコに「軍事的『封じ込め』」を進めながら「経済的『取り込み』」を目指そうなどと軽々しく口にしてはならないと痛切に思う。《QED》


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