樋泉克夫教授コラム

【知道中国 852回】                     一三・一・念三

 ――「民主化された中国」・・・それは悪夢というものだろう
 
 「南方週末」事件以来、わが国でも中国社会の底辺においても民主化要求、共産党独裁への批判が澎湃として起こり、発足間もない習近平政権にとってボデーブローとなるだろうとの観測がみられる。だが天安門事件を思い出してもらいたい。あの時、天安門の広場に燃え盛った熱気と天地をも揺さぶった怒濤の雄叫びのその後を。

 事件発生当時にバンコクで暮らしていた。同地の華字メディアを軸に「共産党独裁に敢然と立ちあがった学生を支持しよう」「民主化は力では抑えようのない当然の道だ」といった論調が連日聞かれた。だが、ひとたび戦車が出動し民主派勢力を広場から排除し、混乱した政局を鄧小平らが納めるや、昨日までの論調とは打って変わってしまった。「鄧小平ら国家に功績ある長老を闇雲に侮辱し、長幼の序を弁えない学生が悪い」「やっと緒に就いた改革・開放路線を危機に陥れた民主派の罪は重い」「混乱を終熄させ、改革・開放路線を守った鄧小平ら保守派の判断は正しい」というのだ。まさに”手のひら“を返してしまった。

 当時7紙ほどあった華字紙のなかで学生・民主派支持を貫いた1紙の経営が事件終熄後に悪化し、華字メディア業界での存在感が失われていったことはいうまでもない。

 将来、独裁共産党が崩壊し民主化が達成されたとして、やはり日本が相手にするのは漢族の政権だろう。

 少数民族出身者を戴く政権などありえない話だ。そこで、たとえば尖閣問題を考えた場合、民主派漢族政権が歴史的にも日本が正しいなどとは口が裂けてもいわないように思う。だからこそ、日本にとっての大難題は漢族なのだ。

 そこで馴染みの林語堂にお教えを請うことになる。いつまでも林語堂でもないとは思いながらも彼以上に納得できる見解に接したことがないので、当分の間は勘弁頼りにしたい。

 「民族としての中国人の偉大な点は」と説き起こした林は、「勧善懲悪の基本原則に基づき至高の法典を制定する力量を持つと同時に、自己の制定した法律や法廷を信じぬこともできるところにあろう」と説く。さらに「煩雑な礼節を制定する力量があると同時に、これを人生の一大ジョークと見なすこともできる」し、「罪悪を糾弾する力量があると同時に、罪悪に対していささかも心を動かさず、何とも思わぬことすらできる」し、「革命運動を起こす力量があると同時に、妥協精神に富み、以前反対していた体制に逆戻りすることもできる」ばかりか、「官吏に対する弾劾制度、行政管理制度、交通規則、図書閲覧規定など細則まで完備した制度を作る力量があると同時に、一切の規則、条例、制度を破壊し、あるいは無視し、ごまかし、弄び、操ることもできるのである」と続ける。

 林はまた「大多数の中国人も自覚的信念からではなく、一種の民族的本能から依然として古いしきたりを墨守している。中華民族の伝統の力とはかくも強いものであり、中国人の基本的な生活方式というものは永遠に存在し続けるように思える」としたうえで、「たとえ共産主義政権が支配するような大激変が起ころうとも」、「古い伝統が共産主義を粉砕し、その内実を骨抜きにし共産主義と見分のつかぬほどまでに変質させてしまうことであろう。そうなることは間違いない」との確信を示した。なお、以上は1935年当時の発言で、訳文は『中国=文化と思想』(鋤柄治郎訳 講談社学術文庫 1999年)に拠る。

 林の描く漢族は、じつに驚嘆すべき「力量」の持ち主だ。雅な表現でいえば融通無碍だが、じつは超手前勝手。臨機応変の出たとこ勝負。無原則が大原則。こんな漢族を知ることもなく「中国の民主化」を“歓迎”するのは、些か早トチリとは思えるのだが・・・。《QED》


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