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樋泉克夫教授コラム
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【知道中国 856回】 一三・二・初二
――日本軍を「足の曲がったごきぶりども」と罵ったのは・・・彼だ
『中国日記』(J・スティルウェル みすず書房 昭和41年)
日本軍を中国大陸に縛りつけ継戦能力を奪うことで日米戦争を有利に展開させようと狙ったルーズベルトによって蔣介石の許に送り込まれながら、蔣介石とソリが合わず、最終的にはルーズベルトによって44年秋に中国戦線米軍司令官兼蔣介石付参謀を解任されたJ・スティルウェル将軍の日記である。
「一九四一年十二月七日 日本軍はハワイを攻撃」からはじまり、「(1944年)十月二十七日 夜明けに飛行場を去る。午前八時、中国・ビルマ・インド戦区の最後」で終わる日記の間に、時に戦意昂揚し、時に意気消沈し、時に悲憤慷慨し、時に茫然自失し、時に辛吟慨嘆する心情を赤裸々に綴った夫人宛の数多くの手紙が収められている。41年から44年秋までの日本軍に対するルーズベルト、米軍首脳陣、蔣介石、宋美齢夫人ら側近たち、国民党軍首脳、加えるに中国共産党などの幾重にも絡み合った利害関係(対日戦勝利という“大義”から個人的利権まで)が、スティルウェルの立場から詳細に綴られている。あの戦争の動向のみならず現在に繋がる米中関係の“深い闇”を知る上では貴重な資料だ。
行間からスティルウェルの持つ狷介な性格が読み取れるが、それにしても、「ピーナッツ」「小男のでくの坊」「小男の成上がり者」「握り屋で、偏屈で、恩知らずのがらがら蛇」「愚鈍で強情」「チビのばか野郎」「底抜けの愚鈍さ」「小さながらがら蛇」「ゲシュタポと党諜報機関によって支えられた一党政府の長」「強欲、汚職、えこひいき、増税、幣制の崩壊、おそるべき人命浪費、あらゆる人権の冷淡な無視」「名義上の頭首」「その資格と業績に比して度はずれなアメリカでの宣伝によっておしたてられている」と止め処なく飛び出す蔣介石に対する凄まじい悪罵。こんな気持ちで対応されたら、流石の蔣介石も頭にきた筈だ。
国民党に対しては、「自分の見たところによって判断する。〔国民党〕汚職、怠慢、混乱、経済、租税、言葉と行為、退蔵、闇市場、敵との取引」と辛辣極まりないが、一方の共産党に対しては「共産党の綱領・・・・・税金・地代・利子の引下げ。生産と生活水準の高揚。統治への参加。宣伝していることの実行」と極めて寛容で好意的な判断を記している。
ビルマ戦線で苦戦を強いられた日本軍に対しては、「私の希望は、そのうちこの野郎ども(日本軍)を踏みつぶし、戦争を終わらせることです」「足の曲がったゴキブリどもがどうやってわれわれの平和な生活をぶちこわしたかを考えると、アジアの一つ一つの街灯にジャップの腸をまきつけてやりたくなります」と、想像を絶するまでに憎悪の念を隠さない。
スティルウェルが綴っている日米開戦の日から44年秋までの日本をめぐっての米、中、さらには英国、ソ連の“対日戦争勝利後”の中国をめぐっての虚々実々の駆け引きと同様に興味深いのが、この本の出版そのものだろう。
「訳者あとがき」で、その戦中の戦績・業績に比してスティルウェルが余りにも不当に扱われていると憤慨した後、この本が「どちらかと言えば冷戦時代の本国でよりも、むしろ世界の民主的世論に歓迎されたことが特徴であ」り、「この日記をもっとも詳しく紹介したのはソ連の雑誌『新時代』であったことは偶然ではない」とし、スティルウェルに対し「中国の反人民的な指導者ではなしに、抑圧されている人民のうちに自己の理想の支柱を見出そうとした」「真の中国の友人として敬愛された」と熱烈な“讃辞”を送っている。
翻訳者は満鉄調査部に巣くった左派代表格の石堂清倫。出版は「民主的」なみすず書房。出版された昭和41(1966)年といえば、70年安保闘争の前夜だ――この3者の結びつきの背後に何やら政治的意図が感じられる。(拙稿809、835回を参照願えましたら幸甚)《QED》
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