樋泉克夫教授コラム

【知道中国 859回】                     一三・二・初九

 ―――「愚」、それとも「誣」・・・どっちにしても困ったことだ
            
 取り立てて含むところがあるわけではないが、やはり坂元一哉大阪大学教授の発言には首を傾げざるを得ない。「尖閣の『よい』棚上げ」と題する産経新聞(2月9日)一面掲載のコラム(「世界のかたち、日本のかたち」)を目にして咄嗟に頭に浮かんだのは、中国の諺である「愚ニアラザレバ誣ナリ」――あんなにバカなことを口にしているということは、本人がバカ(愚)か、さもなくば余程に世間をバカにしている(誣)――であった。

 先ごろ訪中した山口公明党代表に対し、「中国共産党の高官」が「尖閣問題は『前の世代が棚上げし、中日友好が保たれた。後々の世代に解決を託すこともある』」と述べたという」と説き起こし、坂元教授は「中国側はそうした『棚上げ』をおとしどころとにしたいのかもしれない」と推測した後、日本側の対応についての考えを示す。

 坂元教授は尖閣棚上げには「『悪い』棚上げ」と「『よい』棚上げ』とがあり、「尖閣をめぐる双方の意見対立を『領土問題と認め、その解決を将来に託す』というのは『悪い』棚上げ」で、「尖閣をめぐる対立を『日中関係の大局をふまえて、いまは領土問題にしない』という棚上げ」を「『よい』棚上げ」とし、前者は「日本が受け入れられる棚上げではない」が、後者は「日本も受け入れ可能な、少なくとも比較的には『よい』棚上げではなかろうか」とゴ高説を垂れる。

 そして1972年の日中国交回復交渉の際、周恩来首相が田中総理(双方とも当時)に対し「尖閣は『今回は話したくない』と述べたのは、日中国交回復の大局をふまえ、この問題をいまは領土問題とすべきではない、と判断したからであろう。田中首相もそのことに異を唱えなかった」ことを例に、「『よい』棚上げ」の典型例として当時の両国首脳の判断を持ち出し、日本政府も「そういう棚上げならば受け入れてもよい、との態度でいいのではないか」との判断を示す。さらにゴ丁寧にも、「もし中国政府が、いやどうしても領土問題にしたいという場合は、国際司法裁判所への提訴でそうしたらどうですか、と勧めるのがよいだろう」とゴ助言までなさっている。マコトニ、アリガタイコトデゴザイマス。

 ここで考えるべきは、棚上げは中国側の国内事情が微妙に絡み、結果として中国側の有利に展開してきた歴史的経緯であろう。「よい」も「悪い」も、棚上げは日本にとって何らの益はなかったことを冷静に、そして現実的に振り返るべきだ。

 試みに坂元教授が「『よい』棚上げ」の典型として持ち出す日中国交回復交渉時のそれだが、当時は林彪事件直後で共産党中枢は動揺し、四人組が毛沢東の権威をテコに権力への野心を滾らせ始め、周恩来排除に動こうと画策していた。極めて微妙な立場に立たされた周恩来にとって一気呵成に日中交渉を纏め上げ、毛沢東の信頼を繋ぎとめることは至上命題だったはず。であればこそ、底意地の悪い四人組からの妨害を排除するためにも、尖閣問題でゴタゴタしているわけにはいかなかった。だからこそ棚上げを持ち出したと考えられる。鄧小平による棚上げも、中国側に尖閣海域の海底資源を掠取しうる条件が整っていなかっただけでなく、尖閣まで侵攻する軍事力が未整備だったからだろう。

 かく歴史的経緯を踏まえるなら、棚上げを持ち出さざるをえなかった要因は主に中国側にあったわけだ。にもかかわらず日本側は「日中友好」の4文字に雁字搦めに縛られたまま、中国側の持ち出す棚上げに唯々諾々と従い、かくて現在に立ち至っている次第だ。

 確かに日本の選択肢は限られている。だが日本人としては日本にとって百害あって一理も、一利もない「『よい』棚上げ」などという発言は口が裂けてもいうべきではない。《QED》


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