樋泉克夫教授コラム

【知道中国 861回】                     一三・二・仲四

 ―――「龍の守備隊は、拉孟で全滅し、騰越で全滅した」

 『断作戦』『龍陵会戦』『フーコン戦記』(古山高麗雄 文春文庫 2003年)   

 「インパール作戦が大東亜戦争の天王山であったかのように語られている。累々と続く死体と死にかけている兵士の幽鬼のような姿。けれども。フーコンも悲惨であった。そして、インパールもフーコンも、そして中国雲南省の拉孟、騰越、龍陵などの戦いも、天王山などというものではなく、みんな必敗の戦闘だったのである」と綴る著者の古山も、万年一等兵として戦場で辛酸を嘗め尽くしている。

 なぜ日本軍は雲南を戦場としたのか。
「雲南の戦いは、輸送路の争奪戦だとは思っていた。レド公路というのは、インドのレドから北ビルマのフーコン谷地に入り、ミイトキーナ、騰越を経て昆明、重慶に通じる連合軍の輸送路である。滇緬公路というのは、北ビルマのラシオから龍陵、拉孟を通って保山でレド公路と合流する。滇は雲南の意、緬はビルマのことである。/この二つの連合軍の輸送路を、日本軍は要衝を占領して寸断したわけであり、遠征軍はそれを奪回すべく反撃してきたのである」
緒戦は日本軍有利に展開した。「日本軍は、十七年の五月に龍陵を占領し、以後二年間、市街地の外側を複廓陣地とし、周辺の高地を本陣地として陣地を構築してきた」。だが、昭和19年春頃から戦況は一変する。スターリングラードでの独ソ戦、ノルマンディー上陸作戦、それに太平洋戦域での日米戦――戦局を有利に展開しつつあった連合軍は、この地域でも反転攻勢に転じた。遠征軍、つまり米軍の訓練を受け、米軍供与の兵器で装備された中国兵が最前線に大量に投入される。

 昭和19年の「五月に、連合軍は反攻作戦を開始したのである」。敵は日本軍に比して「兵員十五倍以上、火力は何十倍も」あった。「計算して、勝てる条件を満して攻めて来るのが敵の戦法である。それに対して、必要な戦力を準備できない友軍は、奇襲でしか対抗できないのだ。虚を衝いて攻め込み、白兵戦で奪うしかない」。「日本軍は、成算抜きに必勝の信念で張り合ってみるしかなかった」。「いずれにしても、陣地は守りきれない。雲南の戦闘は、斬込みで形勢を逆転することができるようなものではなかった」。
敗北と潰走。最後の決戦の地であった騰越では、「守備隊は、二千数百名の将兵が、落城の九月十四日には、六十人ぐらいに減り、その六十人ぐらいも、落城の後、ほとんどが死んでいった」。「遠征軍には必勝の態勢があった。日本軍には必勝の信念しかなかった。必勝の態勢と必勝の信念との戦いだったのだ。勝てるわけはないのである」。

 じつは滇緬(雲南・ビルマ)の戦場に展開したのは「菊」「龍」「壮」「勇」「狼」「安」「祭」「烈」「弓」「兵」で呼ばれた各兵団。その総数は「三十三万人で、戦没者は十九万人である。全体の戦没率は五割七分五厘」。まさに「ただ、耐えられるだけ耐え、そして結局、全滅した戦闘だった」わけだ。

 それにしても、滇緬で日本軍が採った作戦を、個々の戦闘もさることながら、第二次大戦という地球規模での戦争という視点から振り返る必要があるように思えてならない。
 いま「アジアに残された最後の成長フロンティアー」とか、「チャイナ+1」とか囃し立てて、我が政府も企業も前のめりになってミャンマーに向かう。だが、ミャンマーの歴史、地政学的位置、国際的利害関係を見据えたうえで「必勝の態勢」を立てているか。古山の「戦争文学三部作」は、「必勝の信念」が行き着いた先の「必敗の戦闘」を描き出す。《QED》


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