樋泉克夫教授コラム

【知道中国 862回】                    一三・二・仲六

 ―――超リッパな方々でも群れ集うとリッパではなくなる・・・そうな

 『毛沢東側近回想録』(師哲 新潮社 1995年)   

 著者は自らの人生を「二十歳になるまでは陝西省で勉学し、一九二五年よりソ連に十五年間留学、仕事に従事し、一九四〇年に周恩来、任弼時等の同志に従って帰国した後、毛沢東のそばで十八年仕事を行い、その後計十九年収監され審査を受け、追放され、一九八二年になってからようやく中央組織部によって『十三年間審査を行ったが、問題なし』という結論が出された」と概括する。

 19年間も「収監」「追放」されながらも、「問題なし」のお墨付きを貰うまで13年間も「審査」を受けざるをえなかった。そこで「人生の道は平坦ではなかったが、私は後悔していない」と呟く。理不尽な共産党に対する山ほどあっただろう恨み辛みを無理やり呑み込み、敢えて「私は後悔していない」と語るところに、「平坦ではなかった」「人生の道」に対する著者の悔恨の情が読み取れる。不平不満は、口が裂けてもぶちまけてはイケマセン。

 著者はソ連長期留学組でロシア語通訳として毛沢東や周恩来に仕えていただけに、中国共産党とソ連共産党やコミンテルンとの間の1920年代末から50年代半ばまでの果てしない愛憎関係、鉄のカーテンの向こう側で演じられていたプロレタリア兄弟党間の“国際的友誼”なるものの実態、中国共産党内部の権力争いの凄まじさなどが詳細に綴られている。だが、それ以上に興味深いのは著者が「そばで仕事をすることができ」た毛沢東以下の「いずれも偉大で、忠実なプロレタリア階級の革命戦士」たちへの“大賛辞”だろう。
先ず毛沢東に対しては、「沈着冷静で、修養を積み、癇癪を起さない」。「眼光は炯々として力があり」、「何でも見抜き、見通してしまう」。「正に毛主席が人民のなかから立ち現れ、人民を熱愛し、並外れた指導技術を持っていたがゆえに、彼は中国共産党と腸動く革命を指導し、勝利に導くことができたのである。もしも、毛主席がいなかったら、私たちは暗黒のなかでどれほど長く模索を続けなければならなかったか分からない」。

 劉少奇については、「仕事、物事、人に対しての考えが行き届き、気を使い慎重、かつ少しもいいかげんにせず、厳粛、真剣である」。「自分に対して厳しく要求するだけでなく、心をこめた適切な態度で周囲の同志の困難及び問題の解決を支援する」。「(その著作は)わが党の建設にすばらしい役割を果たした」。
毛沢東子飼いの将軍で朝鮮戦争の際には中国派遣人民義勇軍の指揮を執りながら、58年の大躍進政策を批判したことから毛沢東の逆鱗に触れてしまった彭徳懐に対しては、「党、革命、人民に対して終始誠心誠意つくしており、毛主席を統帥者とする党中央の指導を完全に信頼し、断固擁護していた」。「ゆったりとユーモアに溢れた雰囲気」で、「度量が広く、正直、率直、明朗、公正、光明磊落、公平無私、表裏一体、言行一致、忠実誠実」。

 匪賊上がりの将軍で建国後はスポーツ部門を統括した賀龍に対しては、「我が身を顧みず、党のために、革命のために一生奮闘した」。「事を行うのに勢いがあり、思い切りがよ」く、「忍耐強く、不撓不屈、頑強に闘争し、最後までやり遂げた」

 毛、劉、彭、賀――誰もが修身の教科書に登場させたいほどに立派過ぎるほどにリッパだ。著者に寄れば、特務の親玉の康生や「林彪“四人組”」を除いた大方の幹部は、信頼感バツグンということになるらしい。だが、そんな方々が“団結”する共産党となると、とてもじゃないがリッパとは言い難い。いや問題大有り・・・奇妙奇天烈・摩訶不思議。《QED》


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