樋泉克夫教授コラム

【知道中国 864回】                    一三・二・二十

 ―――朝令昼改・優柔果断・熟考短慮・・それもこれも徹頭徹尾の自己保身

 『高宗・閔妃』(木村幹 ミネルヴァ書房 2007年)

 国際社会からの非難もまるで屁のカッパ。人工衛星打ち上げを僭称してのミサイル実験、さらには原爆実験。その真意を測りかねる国際社会は、北の若将軍ドノの振る舞いに切歯扼腕するばかり。日本のメディアに朝に晩に登場する専門家にしても、プロ野球の評論家に毛が生えた程度の“予想”を垂れ流しているだけ。正直言って床屋政談に近い。北にルーツを持つ医者の友人は常々、「日本の南北朝鮮専門家は儒教に裏打ちされた朝鮮の歴史的政治文化に鈍感すぎる。国際関係論のリクツだけでは朝鮮半島の政治は判らない」と。

 この本は、李氏朝鮮第26代国王で大韓帝国初代皇帝(在位1864年~1907年)に就いた高宗(1852年~1919年)と閔妃(明成皇后/1851年~95年)の2人が、清国の朝貢体制に組み込まれ、極めて限られた国際関係を強いられながらも、西欧列強や日本に対してどのように振るまおうとしたのかを詳細に綴っている。相次ぐ宮廷内クーデターと内乱、加えるに日清・日露戦争、やがて日韓併合へと続く歴史の奔流に道化振りを発揮しながらも立ち向かった2人の姿は、金氏三代のそれに酷似しているように思えて仕方がない。
高宗の生父である大院君は、高宗即位から10年間は「朝鮮王朝においても最も大きな権力を振るった」。大院君執政期と呼ばれるこの時代、財政政策の失敗から「農村のさらなる窮乏化をもたらし」てしまった。「清国やロシア国境に近い地域では、国境を越えて逃亡する農民が続出し、王朝経済の崩壊は、国防面において問題をもたらすことになる」。なにやら「脱北」は昔からあったような。

 妃より格下の貴人である張氏との間に生まれた義親王は宮廷外で育てられただけでなく、高宗お膝元である「漢城府を離れて日本やアメリカ等、海外を点々とすることを強いられた。その意味で、同じ皇子であっても、義親王の立場は、兄である皇太子や弟である英親王より遥かに劣るものであった。/高宗もまた、海外留学中に浪費癖のあった義親王を快くは思っていなかった」。この義親王の境遇は海外に留め置かれた金正日の実弟を思い起させるし、海外留学中の浪費癖が原因で父親から「快くは思われていなかった」点は若将軍ドノにとっては母親違いの兄君に当る金正男を連想しないわけでもない。

 1898年、高宗は勅令で自らを大韓民国の陸海軍を統括する「大元帥」と定め、「自らの下で皇太子が『元帥』としてその一切の統率に当たることを明言した」。同時に「『非常事態が発生したり、出征しなければならない状態が起こった場合を除き』、皇太子以外の皇子、皇孫を、その下の大将に任ずることができないように定めている」。正男に加え同じ母親から生まれた兄の正哲すら飼い殺し状態らしいのは、権力維持のための伝統的手法だろう。

 対外関係では、「第一に(宗主国の清国を差し置いて)、自らの密書による秘密外交で西洋列強を引き込もうとすること、そして第二に、その事が露見した場合には、それを直接の交渉に当たった臣下の責に帰すること、第三に、その場合に工作の対象となった列強には最大限配慮するというやり方である」。浮かんでは消える六カ国協議、さらには拉致問題に対する金正日の処理方法など、まさに高宗の手法を踏襲しているとしか思えない。

 高宗にとっては「対外関係と国内問題の区別さえ、曖昧だった」。だが、「それを高宗の権力欲や金銭欲からのみ出たものだと考えるのは拙速であろう」。「それは高宗にとって、自らと自らの家族を守ることに直結していたからである」。「こうして本当の破局がやってくることになる」と、著者は結んでいる。もはや、多くを語ることもないだろう。《QED》



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