樋泉克夫教授コラム

【知道中国 871回】                    一三・三・初六

 ――ウソつきはドロボー・・・いや、「幹部」の始まりだった

 『延安日記』(彼得・弗拉基米洛夫 哈耶出版社 2009年)
 
 著者のピョートル・ウラジロフ(Peter P.Vladimirov:1905年~58年)を漢字音で表記すると彼得・弗拉基米洛夫になるが、中国在住時には孫平という中国名で活動していた。

 農機具工場労働者から機関車修理工に転じ、27年にソ連共産党に入党。31年に入隊し、復員後はモスクワ東方学院に学び成績優秀で卒業。38年から40年の間はタス通信中国特派員を務めている。この時期は毛沢東が政敵を排除し共産党権力の階梯を上り詰める時期に重なるだけに、共産党における禍々しき権力闘争の実態を詳細に見続けたことだろう。日米戦争開戦の半年ほど前の41年4月、タス通信特派員として再び中国へ。日本軍がビルマを制圧した42年5月にコミンテルン連絡員兼タス通信従軍記者として延安に派遣されている。ならば、自らの目と耳で毛沢東(共産党)、スターリン、蔣介石(国民党)、ルーズベルトの間で繰り広げられた虚々実々の駆け引きを知る立場にいただろう。

 延安滞在は45年11月までというから、日本敗戦後に毛沢東と蔣介石が展開した将来の中国の主導権をめぐる暗闘と内戦へ向けての態勢固めも見聞しているに違いない。48年から51年までは上海総領事で、52年にビルマ大使に転じ、58年にモスクワで死去している。

 ――その足跡を簡単に追ってみただけでも、毛沢東が共産党で絶対権力を揮い、蔣介石を駆逐して建国を果たした過程をじっくりと“考察“できる立場にいた人物であることが判るはず。この日記は、42年5月から45年9月2日までの延安滞在中の記録である。

 毛沢東以下の共産党幹部たちの延安における知られざる日々が克明に綴られ、興味は尽きない。その一例を挙げると、日本側の中国政策の要であった汪兆銘が死去した10日後の44年11月20日の記述に、
 「中共中央主席はニセ情報を使うことで,極めて重要な目的を達成することを考えた。共産党は相当に大規模な軍隊に加え民兵も擁している。最近では、民兵の実力は総計で200万とのことだ。現在、書類上では20万人を水増し220万人という新しい数字になって、すでにモスクワとアメリカの友人に報告されている(毛は我われに対しても憚ることなどない)。こういったウソを彼が言い出すわけは、心の内にモスクワとアメリカの友人に信じ込ませようという明確な目標があるからだ。中共の実際の兵力は国民党と優劣つけ難く、このような数字は実情を反映していないばかりか、兵力対比における誤った判断を導くことになる。

 私が明確に知るところでは、200万という数字もウソだ。最近になって些か水増しされた数字を宣伝している! 葉剣英が提示する数字が信じられるとしても、絶対に100万を超えてはいない。だが、この八路軍参謀長ですらウソがある。ニセ情報は軍と党の責任者が一貫して用いる手法だと、彼はつけ加えている。

 毛沢東は自らがでっち上げた数字に基づく策略に従って正式にモスクワに報告し・・・毛沢東の計略に則り、アメリカ人は来春季には中共軍との共同作戦を展開するだろ」
 『延安日記』の記述を信じるなら、毛沢東はニセ情報でスターリンやルーズベルトを手玉に取り、共産党の幹部たちも「中共中央主席」に倣ってニセ情報で敵を翻弄・撹乱し、“革命”を達成したことになる。「革命の聖地」といわれた延安は、ウソつきの巣窟だったのだ。それから60数年の後、生まれたときから「毛沢東の良い子」として徹底教育された習近平が北京の“玉座”に就いた。やはり用心しても用心しすぎることはありませんネッ。《QED》


Copyright (C) 2012 Geibundo All Rights Reserved