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樋泉克夫教授コラム
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【知道中国 872回】 一三・三・十
――ただ「活該」というだけ・・・それだけでいいんです
その昔、上海にあった東亜同文書院の創立は明治34(1901)年で、日本が戦いに敗れた昭和20(1945)年に廃校となった。この間、中国人のための中華学生部も設置され、日中双方の若者が同じ学び舎で寝食を共にしている。大学に昇格したのは昭和14(1939)年。
東亜同文書院創立に当たり、初代院長を務めた根津一は「興額要旨」と「立教綱領」を掲げているが、それを読み進むと根津たちの建学の理念が伝わってくる。
先ず「興額要旨」だが、実学によって日中双方の若者を鍛え、先ずは反封建・半殖民地状態で亡国への坂道を転げ落ちている中国を救い、富強を目指す。同時に確固とした日中の友好・協力関係を築き、中国を食い散らかして富を吸い上げている覇道なる西欧列強を排除し、平和なアジアを目指し、世界の恒久平和を構築せよ、といったところか。
次いで「立教綱領」では、儒教古典に基づく徳育を中心に据え、生きた知識を教え込む。中国人学生には日本語と西欧の多方面の実学を学ばせる一方、日本人学生には中国語と英語に加え日本のみならず諸外国の制度や法律を学ばせ、自立した国際的なビジネスマンの養成を目指す、と訴えている。これを現在の文部科学省が盛んに喧伝する国際社会に通用する「グローバル人材」の養成と言い換えれば、あるいは理解し易いだろう。
気宇壮大といえば壮大に過ぎるようであり、夢物語といえば恐ろしいばかり夢物語だが、その壮大な夢物語を直裁に表現したのが校歌やら寮歌である。当時、学生たちは「中華千古の光褪せ・・・」「伯夷、叔斉逝いてより憂国の士なき世・・・」などと放歌高吟しながら上海の街を歩いた違いない。弊衣破帽。古き良き時代だった。
「中華千古の光褪せ・・・」とは、栄光無比の中華はいまや地に堕ち、亡国一歩手前だというのに、なぜ中国の若者は決起しないのだ。中国古代、篤い憂国の念を抱き王道政治が行われることを熱望するがゆえに敢えて餓死を選んだ伯夷と叔斉の後、中国には憂国の士が絶えて久しい。であればこそ「祖国の使命を身に受けて集う男子」である我ら日本人学生が中国を亡国の淵から救い、富強の中国を建設し、中国を保全しよう――
はたして根津らが目指した理想が実現したのか否か。敢えて多言を弄さずとも、現在まで続く日中双方の歩みを振り返れば判然とするはずだ。
ところで、なぜ、東亜同文書院について長々と綴ったのか。それは「産経新聞」(3月9日)の「中国は自滅の道を進むのか」(「土日曜日に書く」)を目にしたからである。
筆者の鳥海美朗編集委員は、現在の中国が抱える大難問である大気汚染を挙げ、その原因が「共産党政権の一党独裁の下で成長至上主義が蔓延し、政府も企業も実績の数字を追及するあまり、公害防止を軽視した」点にあると指摘した後、国家主席として新政権を率いることになった習近平に向かって、「習氏には発想の転換を求めたい。でないと中国は自滅の道を進むことになる」と忠告している。だが敢えて本音をいわせてもらえるなら、「自滅の道を進むことにな」ろうとも、それは彼らの勝手だろう。
中国は余りにも大きく、多様性に富んでいる。世界が抱き締めようにも抱き締められないまでに膨脹してしまった。だから、いま世界が熟考し備えなければならないのは、彼らの「自滅の道」に世界が巻き込まれないためには何をなすべきか。その方策を考え身構えることだろう。天は自ら助くる者を助く、と。超夜郎自大な中国への忠告は、一切がムダでしかない。だから、「活該」とだけいっておけばいいのだ。活該・・・自業自得。《QED》
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