樋泉克夫教授コラム

【知道中国 873】                     一三・三・仲一  

 ――明治末年西南中国辺境の旅

 「支那旅行談」(伊東忠太 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

 伊東忠太(1867年~1954年)は明治から昭和前期を代表する建築家だ。荘厳で緊張感溢れる彼の作品は橿原神宮、平安神宮、明治神宮、朝鮮神宮、靖国神社神門、築地本願寺など。現存する作品は過ぎ去りし盛時の俤を漂わせ、その前に立つと、21世紀のいまでも一種の凛冽な思いと共に、なぜか居ずまいを正さざるを得ない懐かしさを覚える。

 日露戦争勝利直後の明治40(1907)年の秋から冬、中国西南辺境に残る寺廟、仏塔などの旧い建築物を調査するため、伊東は貴陽から雲南を抜け緬甸(ビルマ)北部を歩く。

 先ず貴陽に到着。「貴陽武備学堂の高山少佐(今の高山大佐公通氏)以下の学堂諸君の歓迎を受け、久々にて我が同胞の温かき情に旅の疲れを休めた。此の武備学堂は貴州省城の南郊にあり、六名の日本教習が教鞭を執って居ら」れた。当時、中国各地の地方政権指導者の多くは先を競って武備学堂、つまり士官学校を創設し日本から軍人を招いて強兵教育を目指した。西欧列強の侵略から郷土を守るためには先ず強兵である。ならば日露戦争に勝利した日本に倣うべし。そこで、日本式軍人教育から中国の富強を目指した。

 貴陽からの旅は、「先年此の地を歩渉せられ、当地に数日滞在され」た鳥居竜蔵が「旅行中乗用された轎」に修繕を加え使う。伊東より早く、鳥居はこの地に足を運んでいたのだ。

 さらに西南に進み上塞駅に着くと、「思いがけなや我より先に二人の日本人が休息していた。互いに余りの意外に呆れて、しばし顔を見詰めていたが、やがて互いに名乗るを聞けば、一人は京都第三高等学校生野村礼譲君、一人は同茂野純一君であった」。野村は英文学志望で岐阜大垣出身、野村は哲学志望で和歌山有田の人。2人の若者が、なぜ西南中国の山中にいたのか。伊東は続ける。「彼の京都西本願寺の大谷光瑞新法主が印度探検の一行に加わるべく、法主の招聘に応じて昨年の大晦日に日本を発し、印度に向いた」。ところが先代法主が急逝したため大谷光瑞新法主が急遽帰国したことから会うことはできなかった。だが、後に新法主とはビルマ中部のマンダレーで面談が叶ったわけだが・・・。

 その折、大谷新法主は「両氏に雲南より漢口に出て日本に帰ることを命じたので、今や漢口に向かう途上にあるのである」。そこで伊東は2人と終日語り合うことになるが、「私は光瑞新法主の雄図を両氏より詳らかに伝聞して感興禁じ難く、つくづく今自分の試みつつある旅行の姑息にして小規模なることを恨」むのであった。

 現在でも中国西南は日本から遠い。ならば100年以上も昔の同地における調査旅行が「小規模」であったにせよ「姑息」であるわけがない。にもかかわらず伊東が「雄図」と驚嘆した大谷の旅行はどのような規模だったのか。想像するだにドキドキ、ワクワクである。

 伊東は西南方向に道を急ぐ。呂南街で会った雲南在住の英国人牧師から、ビルマからの帰途に「井戸川大尉の一行及び高等学校生徒の五人連れの一行に邂逅した」と告げられた。

 結局、伊東は貴陽から北ビルマの要衝で知られるバーモの間を60日以上かけて踏破し、この間に日本人2組、英国人2組、仏国人3組と遭遇しているが、日本人の場合は「何れも探検的性質のもの」だと記しながら、英仏両国人の旅行は「己の勢力範囲内の土地を普通事務の為や旅行の為」と些か軽んじている。だが英国人牧師が怪しい。中国西南辺境を廻る3カ国7組の旅は、共に清朝崩壊を見据えた中国権益をめぐっての戦いの準備のための兵要地誌作りであったはず。中国をめぐる列強の鞘当ては、いよいよ苛烈の度を加える。

 清朝崩壊まで残すところ4年余。伊東の足が印されなかった中国西南以外の辺境各地でも、多くの無名の日本人が黙々と働いていたに違いない。明日の日本を念じて・・・。《QED》


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