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樋泉克夫教授コラム
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【知道中国 874】 一三・三・仲三 ――中国古典知識は中国と中国人の現実を見誤らせる
「南支那風景談」(佐佐木信綱『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)
伊東忠太の中国西南辺境調査旅行に先立つこと4年の明治36(1903)年から翌年にかけ、歌人・国文学者・文学博士で正六位勲六等の佐佐木信綱は、「揚子江沿岸の鎮江、揚州、漢口、遡って沙市、荊州、宜昌、三峡。洞庭湖を横切って長沙、湘潭、さては蘇州、杭州等」を「見めぐった」。生まれが明治5(1872)年というから、31歳前後に当たる。因みに没年は昭和38(1963)年だった。
佐佐木の中国旅行当時の社会情勢をみておくと、幸徳秋水らが「平民新聞」を創刊した明治36年に、東京に集まった中国人留学生の間で反清革命の動きが活発化していた。翌37年には日露戦争の戦端が開かれ、長沙では湖南の革命派が華興会なる革命組織を立ち上げている。湘潭では若い日の毛沢東が私塾を辞め農業をしながら独学に励んでいた。清末の開明的思想家の著した『盛世危言』に接して触発されたのもこの頃だ――日本では戦争の先行き、中国では清朝の行く末は不明。両国共に物情騒然とした不安な時代が動き始めた。
長沙であれ湘潭であれ、佐佐木は歩いているはずなのに、この旅行を綴った「南支那風景談」には、次の時代を招きよせようという社会の底辺での動きへの言及が見られない。歌人の風景談だからといえばそれまでだろうが、30歳を過ぎた大人としては余りにも鈍感が過ぎる。だが流石に歌人である。社会情勢には疎いが、「大陸の景色で最も美しく感じたのは、夕ばえの美わしさである」と、風景には敏感に反応してみせる。
「夕日はまぶしい光を失い、恰も紅の真玉のようなのが、遠い野辺の果に沈んでゆく。見る見る沈んでゆく。沈みはてたと思うその刹那の景が実に美わしい。しばしすると、西の空が一面に臙脂色に彩どられる。我が国の夕やけや、雲の色の赤いのとはちごうて、雲のない空の果が一面にあかくなるのである。その美わしさ。しかもその美わしさではなく、おごそかなおもみのある美わしさで、華麗というよりも荘厳な美である。じって眺め入っておると、そのうるわしい夕ばえの中には、けだかい尊という不思議識のあるものがこもおっておるように感じられる」 歌人の鋭い感性を総動員したかのように「大陸の・・・夕ばえの美わしさ」を表現した後で、なんと「我らが理想の国、理想の宮殿がそのなかにあるように感じられる」ときた。「我が国の夕やけや、雲の色の赤いのはちごう」のは解る。だが「大陸の・・・夕ばえの美わしさ」に「我らが理想の国、理想の宮殿」を見て取る日本歌人としての感性には、やはり首を傾げざるをえない。この人は、本当に日本の歌人であり国文学者なのだろうか。
岳州で岳陽楼を船上から遠望し、その「金碧煌爛たる色彩の配合が、極めて美観である」と賞賛した後、「元来日本の瓦は、服装の色の如く黒く沈んだ色で、遠くから見るとまことに引きたたず、一見つめたい感じが起こる」と呟く。さらに進んで洞庭湖に遊び、「ただ見る浩々蕩々、洞庭湖は目の前に天地の大幅をひろげてお」り、「この天地の大観に全く我を忘れていた」と、「浩々蕩々」たる「この天地の大観」に、すっかりイカレてしまった。
風景を通しての中国への賛仰は美辞麗句を連ねて過剰なまでに綴られるが、そこで塗炭の苦しみの日々を送る中国の「無告の民」への眼差しは全くといっていいほどに感じられない。中国古典への生半可な知識が禍し、日本人の中国観を実情とは全く違ったものに変形させてしまった。つまり日本人の中国古典への“素養”が中国誤解を招いた――かねてから、こう考えていたが、はからずも佐佐木が、そのことを証明してくれたように思う。
中国では「々」を使わないので佐佐木と改めたことが事実なら、トンだ国文学者だ。《QED》
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