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樋泉克夫教授コラム
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【知道中国 877】 一三・三・仲九 ――「支那通」に「第一類」「第二類」「第三類」の三種あり
『雲荘随筆』(入沢達吉 大畑書店 昭和8年)
入沢達吉の生まれは元治年間というから1865年前後。没年は昭和13(1938)年。東京大学医学部に学び、お雇い外人のベルツに師事した。ドイツに留学し、東大医学部教授。大正末年には葉山御用邸で大正天皇の治療に専念する。奇遇というべきか、伊東忠太が設計した入沢邸は、後に近衛文麿が購い、昭和10年代の日本政治の重要な裏舞台になった。
入沢が福建、南京、青島、広東、長江流域、北京などを旅した明治39(1906)年から大正12(1923)年の間、中国で起こった主な出来事を拾ってみると、清朝の崩壊(1911年)、中華民国誕生(12年)、大隈政権による対華21か条要求(15年)、パリ講和会議に絡む反日運動と反儒教を掲げた近代化を掲げた五・四運動(19年)、共産党誕生(21年)など。
まさに中国社会は疾風怒濤の大混乱にあったはずだが、主に「外務省から嘱託された文化事業の用向き」での中国旅行といったわけでもないだろうが、やはり入沢も社会情勢というよりも殊に風物歴史への高い関心を示している。ただ1ヶ所、中国側の日本への不満を思わせる記述がみられる。それが、広東大学を訪問した際の出来事だ。
入沢は「余は対支文化事業の要務を帯びて往った為め、或る日の夕方から広東の大官名流が多数参集された。孫文は、丁度上海及日本に行かれて居られなかった為め、其代理者の大本営総参謀長の胡漢民氏が臨席された。・・・胡氏の演説中には、対支文化と云う名称は、甚だ面白く無い。之は『東洋文化事業』と改めて欲しいとの注文もあった。(広東大学校長の)鄒魯氏は、日本の文化事業関係者は、宜しく支那側の意見をも聞いて、それを参酌して貰い度いと云われ、孰れも相当に長く、且つ忌憚なき演説であった」と特記する。
当時、孫文は広東に組織した自らの政権を拠点に、軍閥の野合組織とでも形容しうる北京の中央政権打倒を掲げていた。入沢によるなら当時、日本政府はソフトパワーによって孫文系との連携を求めていたと判断できる。だが、胡漢民や鄒魯など孫文幕下の重要人物をして「対支文化という名称は甚だ面白く無」く、「日本の文化事業関係者は、宜しく支那側の意見をも聞いて、それを参酌して貰い度いと云わ」しめた点が気になる。あるいは孫文側が日本の姿勢に逆効果を危惧したのかも知れない。であればこそ「対支」のように支那の文字を使うのではなく、「東洋」の2文字で日本を表してくれという要望になったのだろう。日中交流全般に就いての歴年の齟齬を考えると、現在は日本側による過度の自己規制が専らだが、どうやら当時は中国側が日本側に“お願い”していたようだ。
大正12年、入沢は初めて北京に足を踏み入れるが、長年の中国旅行を振り返って、「此頃世の中に、所謂支那通と云わるる人が尠くない。然し熟ら考うるに、是にもおのずから、種類があることと思う。/第一類の支那通は、唯支那をアチコチ通過した丈の支那通である。/第二類の支那通は、昨年は天津北京へ三度、上海へ五度往復したと云う類で、所謂支那通いをしている支那通である。/第三類の支那通に至っては、支那の風俗民情より言語思想に至るまで、支那の社会万般の事、細大残らず心得て居る。真個の支那通である」とし、「余の如きは・・・無論第一類に属するものである。或は是から用務の都合で、追々第二類になるかも知れぬけれども、第三類は到底企て及ぶところでは無い」と記す。
当時すでに「第一類」「第二類」「第三類」の三種の支那通があるが、第三類は少なく、前2者の言説が大いに幅を利かせ日本の与論をあらぬ方向に導き、対中政策を捻じ曲げていたことを、入沢は言外に訴える。それから100年余が過ぎるが、日本の対中理解が当時に較べ格段に深化したとはいえそうにない。入沢の嘆きは時代を超えて猶も続く。《QED》
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