樋泉克夫教授コラム

【知道中国 878】                     一三・三・念一
  
 ――「異臭の為めに頓と食欲を滅する」

 「支那南北記」「石竜」(木下杢太郎 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

 明治18(1885)年に生まれ、敗戦直前の昭和20(1945)年4月に没した医者にして詩人、随筆家、文学者、美術愛好家の木下杢太郎は、大正5(1916)年からの4年間を奉天(現在の瀋陽)で送っている。じつは同地の満鉄付属地に在った南満医学堂教授兼奉天医学院皮膚科部長を務めていたのだが、「大正九年七月末、わたしは長い間住み慣れた奉天と、その地に同僚に別れを述べ・・・数ヶ月の旅をした」。

 朝鮮経由で北京に入るや、「わたしは全く魂を消したのである」。それというのも北京は「現代は支那の首都に相違ないが、人間生活の趣味や様式には、我々が日本で支那的と考えている以外の要素――多分蒙古的、中央亜細亜的のものだろう――が多大に間雑交錯して居」たからだ。そこで木下は、「一口に支那と云っても実物は厖然たるものである」と、「日本で支那的と考えている以外の要素」を遥かに超えた中国の多様性に着目する。日本人の常識を遥かに超えた圧倒的な人の数と不潔さ。やはり日本での常識は通用しない。

 旅の先々で利用する「支那旅館」の汚さに加え、料理屋での「頓と食欲を減ずる」ほどの異臭に閉口するが、それでも適度に楽しみながら旅を続ける。当時は、それをも「日本で支那的と考えてい」ただろうからだ。だが、さすがに「私の医学の専門は癩の治療、その病理の研究をもその対象の一としている」だけあって、社会における疫病患者の扱いには格別の注意を払って観察している。

 「支那の広東省には一万五千人からの患者が有るという。或地方は数百年来この疫病の巣窟となっている。癩人は往々社会のために犠牲に供せられる。広東北方の或処では、癩人に祭服を着せてこれを泥酔せしめ、その上に麻薬を飲ませて疼痛を感ぜぬようにし、生きながら棺の中に釘づけして焚き殺す習慣もあったという。/千九百十二年の革命の時には、広西の首府南寧で癩人の虐殺が行われた。その地の軍隊は地面に大穴を穿ってそのうちに薪を積み、石油をかけて、町から狩り集めてきた五十人ばかりの癩人を陥し入れ、銃殺をした後にその死骸を焚いた」と綴る。

 だが当時の中国には「全く救護の機関は無かったのである」が、「始めて広東の付近に癩院を建てようと企てたの」は「耶蘇会士」であり、広東の田園地帯の「河中に一小島を買い、小院を造った」ということだ。この小島の癩病救護施設を訪れた後、木下は耶蘇会士の宗教上の奮闘を讃え、「昨日は三百年の古都に遊んで/栄枯盛衰の理を稽え/今日は身を癩人の舟にまかせて/初めて見えたる良き師と別れる」などと口ずさみながら、患者が操る小船で救護施設を後にした。

 長沙から上海への道すがら、彼は「不思議な現象に気が付い」ている。「それは、碼頭、街側の労働者の五十人に就いて一人か二人かははげ頭だということである。いろんな人に尋ねて、之をラアリイトウと云うことは分った。トウは頭であり、ラアリイは何か意味が分らぬ。分らぬ為めに癙痢などという文字をあてている。それは大部分は黄癬などと云う伝染病であったが、其分布の広いことは一驚を喫するのである」と述べた後、不潔ゆえに「伝染病の分布はかく広いが文明や物産は中々放散しない」と結論づける。

 日用品、装飾図案、「それから家の構造、殊に屋根の勾配が、土地により著しく違う、之に加えて自然が違う。植物が違う。人の言葉は無論著しく違う」と、その多様性に改めて驚きを隠さない。木下が体験した現実の大陸とそこに生きる人びとは「日本で支那的と考えている以外の要素」を呑み込みながらも、「支那」以外の何物でもなかったようだ。《QED》


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